香りで人を魅了できるか──。できるとは思いますが、ではどんな香りでそれができるかは一概には言えません。人間も動物の一種なので、体臭、動物臭、脂の臭いには敏感に反応します。敵か味方かを判断する材料ですからね。動物の臭いは植物の香りより心をざわつかせますが、感じ方は雌雄差はもちろん、個人差も大きいのです。男性好み、女性好みという香りの傾向はあるものの、それをして相手を魅了する香りとはならないのが人間の嗅覚の不思議なところです。
単純に香りだけで心が動くというよりは香りによって記憶が呼び覚まされるということに他ならないのです。つまり香りが記憶とか情動を変化させるきっかけとなるわけですね。無臭よりは香りがあったほうが気持ちは動きます。ただし、それはよい方向にも悪い方向にも作用するので、万人にこの香りならモテるとは残念ながらならない。鼻の機能も目や耳と同様、年齢とともに多少落ちるのですが、8割程度にとどまり、むしろ経験値によって識別能力は上がるとも報告されています。人は普段、匂いを意識していなくても実は感じて生きているもの。たくさんのよい経験とともにある香りが記憶に定着し、その人にとっての忘れえぬ香りとなるのではないでしょうか。
匂いは認知より先に情動に働く
視覚の場合、情報はいったん脳の後方側に伝わって4 ～ 5 段階の神経を経て脳の根幹に伝わります。嗅覚は匂いを感じたらほぼ3 段階で、脳の情動に作用する扁桃体、ホルモン系に作用する視床下部、記憶にまつわる海馬に届きます。何の匂いか認知する前に情動に訴えかけます。認知の速さは嗅覚のほうが視覚より遅いですが、情動に働きかけるのは嗅覚が先。考える前に気持ちに働きかける。嗅覚が他の感覚器とは違う由縁はそこにあります。
香りとは、空間のコミュニケーションである
よく海外と日本では湿度のせいで香水の香り方が違うといわれますが、それは湿度のせいだけではなく、街の匂いそのものが違うせいもあるんです。石造りの建物、日本には見られない花や果物の強い芳香に満ちている欧米と木造家屋の日本とでは香りの感じ方がまったく違ってきます。その空間で嗅ぐ香りで人は自覚はなくとも文化的なコミュニケーションを取っているのです。
嗅覚は完全に遮断できない
視覚は眼を閉じることで、聴覚は耳を塞ぐことで、味覚は口に食べ物を入れないことで、触覚は分厚い服などを着ることで遮断できます。が、嗅覚だけはいくら鼻をつまんでも完全に匂いを断つことはできません。一見、いちばん生活で必要ないと思われている嗅覚ですが、実は嗅覚を損失すると他のどの器官を損なうよりも5 年以内の死亡率が高いというデータもあるのです。
匂いには覚醒、鎮静作用がある
ムスクやチュベローズ、イランイランなど昔から催淫作用がいわれているものは、匂いの嗅覚シグナルが働いてそうなるのか、匂い物質が血中から入って生理的な影響が起きているのか、はたまた両方なのか、またどうしてそうなるのかというメカニズムの解明はまだです。ただ、匂いの中で、覚醒だったり、鎮静だったり何らかの作用があると確認されているものはいくつかあります。
お話を伺った方
東原和成さん（東京大学 大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 生物化学研究室 教授）
1989年東京大学農学部農芸化学科卒業後、アメリカ大学院留学。博士課程修了、デューク大学医学部研究員を経て’95年帰国。現在は東大にて、匂い、フェロモン、味などの化学感覚シグナルが情動や行動に及ぼす影響を分子レベルで解き明かす研究を行なっている。
内なる情動を呼び覚ます、美しいひとのための官能香水
SOURCE：SPUR 2017年10月号「美しいひとのための官能香水」
photography:Kaz Arahama〈D-CORD〉 styling:Masayo Kooriyama edit:Teruno Taira special thanks:Maho Yamada（Fragrance adviser）
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