ジャン=クロード・エレナといえば、2004年~2016年の間、エルメスの専属調香師を務めた「ネ」としてあまりにも有名。庭シリーズやカレーシュ、ヴォヤージュなど綺羅星のような名作を生みだした天才です。現在のエルメスの「鼻」は、クリスティーヌ・ナジェル。クリスティーヌは2014年からの2年間、ジャン=クロード・エレナ氏と共にエルメスで過ごし、周到な移行期間を経たのちに、香水クリエーション・ディレクターに就任しました。実に濃密なバトンの受け渡しだったわけです。かつてクリスティーヌはこの時間についてこんなふうに語ってくれました。「この2年という期間は、決して誰かから課されたものではありません。私たち2人のクリエーターにとって必要な、自然に生まれた時間でした。ジャン=クロードの仕事を間近で見て、私自身もこれでスタートできるなと思えるタイミングに至るまでに擁したのが、あの2年間だったのです」。
プロ同士の協働というのがどういうものなのか? 才能と才能の融合、いや、ぶつかり合いはどれだけ激しいものなのだろう? 熾烈な現場を妄想していた自分にとって、そのあまりに穏やかな回答は、意外なものでもありました。そのエレナ氏が、プロとのコラボレーションを通して、再び新しい香りを誕生させました。今回の相棒は、セリーヌ。自身の娘のセリーヌ・エレナです。
Atelier ELLENA(アトリエ・エレナ)としても活動している父と娘は、フレグランスブランド「100BON(ソンボン)」にて、3つのコレクションを創りました。3つを貫く共通のテーマは「欲望(デジール)」。肉親どうしで扱うお題が「欲望」……。フランスだからそれって普通なのかしら。戸惑うのは私だけではないはずです。
「匂いは言葉、香水は文学」、そう語るエレナ氏は素晴らしい筆者でもあり、彼の著書に目を通せば、優れたパフューマ―は世にも美しい語彙の持ち主だということを思い知らされます。なかでも「調香師日記」は、調香師の日常を綴る素敵な随筆。香りの芸術家の脳内を自由に旅することができる一冊です。やはり調香師だった父親との思い出もみずみずしく綴られていて、香りの一族にまつわる誌的な思考を垣間見ることができるのです。幼少期、栽培農家の花摘みの手伝い中に出会った大人の女性たちの肉感的な匂いの物語は、なかでも印象的でした。その体験が、このたびオードパルファンとなって昇華されています。それが第一章の「ムスク&ジャスミン」。
官能的なジャスミンに、少年ジャン=クロードのときめきが重なって、誰もが体験したであろう思春期の赤面体験がフラッシュバックする香りです。そう、枕に顔を突っ伏して、ギャーッって叫んでしまう類のアレです。
「官能の目覚め」は娘にバトンタッチされます。第二章はセリーヌの「失恋の思い出」。叶わなかった恋の余韻を、彼女はベチバーとイリスに託しました。苦み走った、でも温かな肌の記憶というアンビバレントな想いを、ノンシャランでおしゃれなウッディが物語ります。
そうか他人の失恋はこんな匂いなのか……、真剣に考えながら3本目の競作を手に取ります。甘い。あまーい! 欲望の旅は実に甘美なフィナーレを迎えます。私は単純に思いました、これは人間への讃歌だと。父と娘が謳歌しているであろう、素敵で人間くさい、あったかい人生が透けて見えてくるような。力強くてイノセントな香りで、三部作は完成するのです。
父が甘酸っぱい目覚めを、娘が恋に破れた記憶を綴り、最後にふたりは無邪気に官能のエッセンスをかたちにした。うーん、なんだか楽しそう。はにかんだり、ときめいたりしながらふたりは自由に香水を創ったに違いありません。しかも、香りを通して私たちはふたりのアーティストの人生の断片を、追体験することができてしまう。「わたくしごと」が卓越した芸術家の手にかかるとここまで魅力的な作品になるという好例が、このコレクションにはあるのです。