イカ好きです。
ここぞというときに予約するのは西新宿のイカセンター、かつセンター詣でのドレスコードはもちろん「イカ」。透け感のあるグレーのドルマンスリーブがユニフォームです。ダイオウイカのNHKスペシャルには胸が震えたし、そういえば昨晩のおかずもイカとワカメとぬたの酢味噌和えでした。昼食替わりに丸干しホタルイカをデスクでもぐもぐして、異臭騒ぎを起こしたのも良い思い出です(職場の皆さんすみません)。
スナフキンみたいな帽子には海藻がまとわりついているし、殉教者のような大きな襟の真ん中にはヒトデのボタン。触手の先には恭しくドラゴンボールのようなものを携えています。なによりもその達観したような眼差し! パッケージの佇まいからしてこのイカ、只者ではありません。
紺碧色のジュースを手首の脈にワンプッシュしてみると―。
数年前「いかわたの漁師鍋」なるレシピにハマり、いかの肝のかほりに我が家が満たされた時期がありました。あの香ばしいフレーバーがプシャーッと広がるさまを妄想しながらその瞬間を待つと……まったく違うのです。
結論から言うとイカの匂い、まったくしません。
ニッチフレグランスブランドのズーロジスト、テーマとする動物の匂いをそのまま表現するわけがありません。公式ウェブサイトの説明を勝手にまとめると、物語はこうです。
青々とした大海原を駆け巡るイカの群れが、鯨に出くわす。墨を噴射しながら果敢に闘ったのちに力尽き、飲み干され、月日を経てそのくちばしは鯨の体内で龍涎香となり、たからものとなって波辺に打ち上げられた。イカの記憶は墨を通してインクに姿を変え、潮の風をなびかせながら、ミドルノートを奏でます。ベースの主役は龍涎香すなわちアンバーグリス。ズーロジストは動物性の素材は用いないのでそれを模した合成香料を配合し、イカのメランコリーな一代記は香りとなってこの小さなボトルに詰められ、私の手に届いたのです。
肌にワンプッシュのせた直後は、上記のとおりソルティなアクアティックトーンとなって鼻腔をくすぐります。それは海ロケを終えた帰路の、髪の匂いとよく似ています。それが5分も経つと、温かな甘さがすっと顔をのぞかせるんですよ。綿菓子のような、透明感あふれるムスキーな甘さが体温と交わりながら立ち昇る。例えるのなら、泳いだあとのけだるく、心地よい夏の午後を想起させるリラックスしたムード。この移り変わり、じつに面白い!スモーキーなインセンスの気配もあるので、しつこい甘さでは決してありません。インセンスやピンクペッパーが調香に深みを加えていて、美しいドライダウンタイムを運びます。
万人向けの香りではありません。でも、この香りをまとうことで、少なくとも私のイマジネーションは、イカの視界を通じて未知の深海から波打ち際へと自由に旅をした。あのNHKスペシャルのダイオウイカの目に一瞬で捉えられたように、ひとつの命が賢明に炎を燃やすあまりにも美しい姿に、生身の心が重なった瞬間でもありました。
想像力を容赦なく刺激するもの。心を旅させてくれるもの。私にとってフレグランスはそういうものだということを、今一度思い起こさせてくれた不思議で素敵な香りのギフトのお話でした。