いくつになっても輝く力 Part.1

芳村真理さん/Mari Yoshimura

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ラッフルジャケット(参考商品)/ステディスタディ(TOMO KOIZUMI) ピアス〈WG、ルビー、サファイア、アメシスト、アクアマリン、ガーネット、ダイヤモンド〉¥4,800,000/ミキモトカスタマーズ・サービスセンター(ミキモト)

人間こそが大切な財産。これからも刺激的な出会いがありそうで

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ジャケット¥82,000・メッシュロングドレス¥59,000・中に着たジャカードドレス¥85,000・パンツ¥37,000/マメカスタマーセンター(Mame Kurogouchi) 3連ネックレス〈WG、黒蝶真珠、白蝶真珠〉¥3,860,000・ピアス〈WG、白蝶真珠、ダイヤモンド〉¥5,500,000/ミキモトカスタマーズ・サービスセンター(ミキモト) パンプス¥125,000/JIMMY CHOO

時代のほうから私のもとにやって来てくれた

「ないっ!」

 こちらが質問した瞬間、こう即答した芳村真理さん。モデルとしてキャリアをスタートさせて以来60年余り。有名なTVの歌番組「夜のヒットパレード」で毎週披露していたハイブランド&みんながアッと驚くほど刺激的なファッションに至るまで、「この服はちょっと……」と思ったことはない?との問いへの明快すぎる答えだ。

ジバンシイさんがやって来て「マダム、ありがとう!」と

「今日のこのトモ コイズミの服だって、以前同じデザイナーの服は着たことがあるんだけど、さすがにちょっと不安になって、こんなの初めてなんだけどSPUR編集部に“本当に私が着こなせると思っている? 芳村がもうすぐ85歳になるのをご存じ?”と確認してもらっちゃった(笑)。ヘアメイクの方とかも初めてだし。でも不思議ね。スタジオに入って髪をつくっていただいたり、カメラを向けられてシャッターを押されるうちにどんどん頂点に上がっていくの。高揚感というか達成感のようなものを関わったスタッフ全員と分かち合う喜び。『夜のヒットスタジオ』にはドレスを貸してくださったジバンシイさんご本人がやって来たこともあったんだけど、なんと私、ドレスを後ろ前に着てしまって。もちろん平身低頭で謝りましたよ。でも彼、“マダム、僕のドレスの新しい魅力を教えてくださって、ありがとう”とおっしゃって全然怒らなかった。ああ、なんて器の大きい人なんだろう、と心から感動させられたわ」

 今ほどハイブランドのファッションが身近ではなかった時代。芳村さんが同番組で着用する服は毎週ファッション関係者がチェックしていたことでも有名だった。

「その一着一着を、私、ポラロイド写真に撮って残しているの。“この回はジュリー(沢田研二)が◯◯を歌った”とかちょっとしたメモを書いて。それが何百枚、つまり何百着も着ていたわけで、いつかフォトブックのようにまとめられるといいなという夢がある。夫がポラロイドの社長だったからポラロイドだけはいっぱいあったのよ(笑)」

戦争中の暮らしを体験したことが原点の一つに

 モデル時代はもちろん、司会者、女優、コメンテーターと各々の活躍の場でも、そのファッション・センスが取り上げられることが多かったが、芳村さん本人は「戦争中に疎開していた宮城県石巻市での暮らしが私の原点としてある」という。

「戦争中は本当に何もないんだけど、それはみんなも同じだからそんなに不満に感じなかった。それより、春のつくしや嫁菜、せり……etc. を摘んだり、青い空や太陽のポカポカとしたぬくもりを全身に浴びたり。70年以上たっても忘れられなくて、私、北海道とか沖縄とか、地方のおじいさんおばあさんの所に都会の子どもたちが内地留学するという活動にも関わっているの。孫の一人もその経験者で、“グランマ、もぎたてのなすでおみおつけ作ったよ!”と興奮しながら報告してくれましたよ。もちろん疎開暮らしは大変なことも多くて、母や兄たちは“思い出したくもない”と言っていたけれど、日本には東京だけでなくいろいろ素敵な場所がある、と特に子どもたちや若い人には知ってほしい、というのも夢の一つね」

今となっては100歳なんて通過点になりそう(笑)

 とはいえ、両親ともに東京の人形町生まれで、小唄の師匠だったお母さんの影響もあってか、何が粋で何が野暮かを自然に体得していたフシが芳村さんにはある。「疎開から帰京したときは家が焼けていたから、家族8人、借りた人んちのお蔵でギュウギュウになって暮らしていたわ(笑)」というが、編入した中学校で入ったハンドボール部(!)の「ブルマーというの? あのダボッとしたシルエットが嫌で、勝手に直してショートパンツみたいにしてはいていたわ」というのはさすがだ。

「近所に新内流しの人がやって来たり、キセルの管を掃除する羅宇屋という職業の人も回って来たり。父に、“末廣に行って落語を聞いておいで!”と小遣いをもらうかと思えば、お稽古をつけに出かけていく着物姿の母の背中がなんともカッコよく思えたり。もう、そういう江戸情緒みたいなものはなくなってしまうでしょ。だから幼少時に下町と密接に関わっていた安藤和津さんや宮本亜門さんと対談して、下町文化の生き証人になりたいという夢もあるのよ」

 着物に関しては、芳村さん、自著にも紹介している印象的なエピソードがある。ある年のカンヌ国際映画祭。友人の川喜多和子さん(後にフランス映画社副社長)と黄八丈を着てビーチを歩いていたら、ジャパンデーという催し物に来ていた日本の政治家に「黄八丈なんて玉の井の浮売みたいだ」と言われたというのだ。

「昼のビーチと夜の正式上映と、私たちだって考えて着物を替えているし、和子ちゃんなんて紫のお召し物が世界の映画監督たちから憧れられていた川喜多かしこさんの娘で、和服のなんたるかは知っている。そういう政治家に限って上映が始まったら大イビキで、本当に恥ずかしかったわ」

 こうしたカンヌやパリなどを舞台にしたかの地の文化人たちとの交流も、芳村さんの血となり肉となっているのは言うまでもないが、「和子ちゃんもそうだけど、『日本って、“私が私が”と前に出ないで黒衣となっている人にもっと注目すべきよ』」と言ったという友人が、ハンガリー在住の映画人、糸見偲さんだ。

「お互い、同じくらいの時期に夫を亡くしたということもあるけれど。偲は、ベルリンの壁が崩れるきっかけになったヨーロッパのピクニック計画に、ご主人で映画監督、国会議員だったコーシャ・フェレンツとともに参加していたの。東ドイツの若者を大勢サポートしたり。そんな偲との交流も含めて、物とかお金ではなくて、人間が一番の財産だとつくづく思うわ。それも健康に気をつけて生きていけば、もっともっと新しい出会いがある。今回だって、一応3日間ぐらいは緊張していたのよ(笑)。久々のファッションの仕事だから。これからも心は穏やかに、でも刺激的なことにも尻込みせず、 100歳を通過点にしたいわ(笑)」

芳村真理/よしむらまり1935年東京都生まれ。人気ファッションモデルとして活躍後、「夜のヒットスタジオ」「3時のあなた」などテレビ黄金期の数々の人気番組の司会を務める。現在は、NPO法人 MORI MORIネットワークの副代表として植林啓発活動にも関わる。

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