「いちべついらい 田村和子さんのこと」 #03

「わたしのこと、おばさんじゃなく和子さんと呼んでね。よろしくね、和子です」

この本は、詩人の田村隆一の妻、田村和子のことを、一時期田村家に下宿していた橋口幸子さんが書いたものである。田村隆一と妻和子、そして詩人の北村太郎との三角関係の恋愛の話は、『荒地の恋』(ねじめ正一)でも書かれているが、この本はその和子と北村太郎が駆け落ちから帰ってきたあとから始まる、生活の記録であり、記憶である。

田村和子も、田村隆一も、恋多きひとで、どちらも他の相手に恋をして家を出たりする。けれど、その間も家の窓ガラスを磨いたり、食事を作ったりという生活は続く。どんなにドラマチックなことがあっても、生活は生活で、いつもそこにある。

平和な生活を望んでいないわけでも、今の生活をぶち壊しにしたいわけでも、誰かを傷つけてやりたいわけでもなく、ただそういうふうに、恋愛をする性分に生まれついた人、というのがいて、それは当人ですら持て余すくらいどうにもならないものだということが、読んでいると見えてくるようだ。

恋愛のせいで、人間関係がめちゃくちゃになっていき、老齢に差し掛かった和子に、頼れる人、心を許せる人は、少なくなってゆく。

著者本人も、和子という人に巻き込まれ、苦しんだ一人であるのに、この本にそうした恨み節のような部分はひとつもない。静謐な文章で、確かにあった和子の魅力、人間的な面白さ、どういう人であったのか、ということが柔らかなえんぴつでそっと輪郭をなぞるようにして描き出されている。

読んでいると、誰のことも憎めないし、嫌いになれない。誰が悪いなんて言えない。もしかしたら、人間は、誰も悪くないんじゃないか。ただ、どうしようもない性分をみな、生きているだけなのではないか。そういう気持ちになる本である。

「いちべついらい 田村和子さんのこと」(橋口幸子著/夏葉社)

“雨宮まみ”

雨宮まみ

ライター。『女子をこじらせて』(ポット出版)で書籍デビュー。以後、エッセ イを中心にカルチャー系の分野でも執筆。近著に『東京を生きる』(大和書 房)、『自信のない部屋へようこそ』(ワニブックス)がある。

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