オスカー授賞式のボイコットと、それに続く外国語映画賞受賞でも話題になった、アスガー・ファルハディ監督作『セールスマン』。イランの首都テヘランに住む、演劇活動もやるような知的な夫婦が主人公の心理サスペンスです。都心の乱開発のあおりで急遽別のアパートに引っ越すことになった二人。前の住人の荷物がまだ残っているようなその部屋で、ある夜、妻が男に襲われます。それを警察に届けようとしない妻、業を煮やして犯人を探しはじめる夫。その行方もさることながら、すれ違い、食い違う二人の感情が、やがて意外な展開を呼ぶことになります。
イランの社会情勢や伝統的な考え方が背景にあるものの、「事なかれ主義」という言葉さえある日本の観客には彼らの行動がよくわかるのではないでしょうか。むしろ一番怖いのは、この夫婦を含め、出てくる人がみんな普通に「やりがち」なことをしていて、それがゆっくり負の連鎖を生んでいく点。もう一つ私が不穏に感じたのが、自宅に知らない人の私物があるところです。それがものすごく感覚的な不気味さを放ちつづけている。
それでもう一つ思い出したイラン映画が、『アンダー・ザ・シャドウ』(2016)です。イラン・イラク戦争下、母娘が暮らすアパートにミサイルが落ち、その亀裂から異変が始まる――という冒頭も似ているし、「ベッドのなかにまで戦争が忍び込んでくる」怖さもどこか『セールスマン』と共通している。かたや緻密で洗練されたオスカー受賞作、かたや超自然を描くホラーですが、夫婦や親子といった関係の内側に踏み込んでいく両作。そこからは、ヒジャブを着けた女性たちの葛藤も見えてきます。
『セールスマン』
監督/アスガー・ファルハディ
出演/シャハブ・ホセイニ、タラネ・アリドゥスティ
6月10日より、Bunkamura ル・シネマほか全国順次ロードショー
(C) MEMENTOFILMS PRODUCTION–ASGHAR FARHADI PRODUCTION–ARTE FRANCE CINEMA 2016
本誌で映画のレビューを手がける。ライター、エディター、翻訳もこなす。趣味は散歩と、猫と遊ぶこと、フットボールを見ること。