ブレイディみかこのSISTER "FOOT" EMPATHY
"他者の靴を履く足"※を鍛えることこそ、自分の人生を自由に歩む原動力となる! 真面目な日本女性に贈る、新感覚シスター「フット」談
※ ブレイディさんの息子が、他者の感情や経験などを理解する能力である"エンパシー"のことを、英国の定型表現から「自分で誰かの靴を履いてみること」と表現。著作内のこのエピソードが多くの反響を呼び、社会現象となった。

それはあなたのパラノイアです。そう言われても仕方がないと思うが、翻訳するはずだった絵本や子ども向けの本の発売が中止になったり、発売延期になったりすると、「もしかして、この本、米国の学校で禁書処分になったの? でも日本には関係ないでしょ? いやしかし、ひょっとしたら……」などと一瞬考えてしまう自分がいる。そしてそんなことを思うたびに、いやもう大変な世の中になったものだとしみじみ考えてしまうのだ。
一昔前までなら、米国や欧州では出版されている本が日本で出版できないのはなぜ?と考え込んだものだった。が、いまや米国に関する限りは逆になったというか、米国の学校や図書館では読めない本が日本なら読める状況になってきている。「米国はこうだから、日本もこうすべき」という感じだった論調も、これからは「米国はこうだから、日本は同じ道を行ってはいけない」になるだろう。いやはや、完全に時代は変わったのだと痛感することの一つに、米国の学校や図書館における禁書問題がある。
俳優のジュリアン・ムーアが20年近くも前に書いた本が禁止処分になったことは日本でも報道されていたので、知っている人も多いだろう。『Freckleface Strawberry』(そばかすのストロベリー、の意)という4歳から8歳の子ども向け(amazon.comによる)のその本は、米国防総省の運営する学校から禁止処分にされたという。ジュリアン・ムーアは、軍人の父を持っていて、自分自身も国防総省が運営する学校の出身なので、「トランプ政権によって国防総省の運営する学校で禁止とされたことに大きなショックを受けています」とインスタグラムでコメントした。この本は、自分の顔のそばかすが大嫌いな7歳の少女が、人はそれぞれ違うのだということを受け入れていくストーリーだという。それだけ聞くと、さまざまなコンプレックスを持ち、自己肯定感の低い子どもたちに、あなたはそのままでいいんだという自信を与える本に思えるのだが、何がいったい問題なのだろう。
米国の教育現場での禁書の動きは、何も第2期トランプ政権発足から始まったわけではなく、州レベルでは数年前から起きていた。だから、昨年の大統領選に向けての争点の一つになっていたのだ。NPO「米国ペンクラブ」が2024年4月に公表した報告書によれば、2023年7月から12月までの半年間(学校年度の前半)に、全米23州で4300以上の本が公立学校で禁書扱いになっていたという。性的少数者(LGBTQ+)や性的暴力、セックスの描写のあるもの、そして人種や人種差別の問題を扱う本が学校の図書館から除去されていたという。禁書とされた本の中にはノーベル賞作家、トニ・モリソンの『青い眼がほしい』や、かの有名なアンネ・フランクの『アンネの日記』(性的な描写があったからだという)まで入っていたらしい。
子どもたちに読ませる本の選択が大人たちの政治思想の主戦場になってしまっている。保守的な有権者たちに支持されている共和党のトランプ政権は、教育機関における多様性推進の取り組みを禁止する。多様性に関する授業など「反米的な教え」を促進する公立校には連邦政府からの支援を差し止めると発表しているので、きっと学校のほうでは支援を打ち切られないために忖度して子どもたちが読める本の幅をどんどん狭めていくだろう。
私が以前書いた『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』という本(ところで、この本なんかもタイトルからして、もし米国だったら秒で禁書かもしれない)の中で紹介した『タンタンタンゴはパパふたり』という絵本も禁書リストに入っていた。これはニューヨークの動物園で起きた、オスどうしのペンギンが子どもを育てた実話を絵本にしたものだ。世の中にはいろんなことが起こるのですよ、ということを伝え、子どもたちの見識を広げるのが教育だとすれば、なにゆえ子どもたちの知識の幅を狭く制限しているのだろうと思う。『Eyes That Kiss in the Corners』という本も禁書になっているらしい。これは、アジア系の小学生の女の子が友人たちのように丸く大きな目を持っていない自分に気づき、それを乗り越えていく話なのだそうで、前述のジュリアン・ムーアのそばかすの女の子の話にも通じるテーマだ。こうした自己肯定感を扱った話は、絵本界や児童書界の一つの定型プロットだったし、多様性がどうのという前に、子どもたちが自分に自信を持つ手助けになるから愛されてきたのだ。それなのに、こういう本を禁止するのは、まるで見識が狭くて自信のない子どもたちを育てようとしているようで、ふつうに考えれば、そういうことをする社会はノー・フューチャーになる。
女性や子どもを守るために行き過ぎた思想を取り締まる、と言えば聞こえはいいが、これ、何かと言えば、ネオ家父長制なのではないだろうか。女性がただ守られる立場の存在になり、子どもたちが自信のない弱々しい子になったら、自分の好き放題に振る舞えるのはお父さんだ。「女性や子どもを守る」という米政権のお題目を聞くたびに、「おんな子ども」と呼ばれた時代の復活を感じてしまう。だって真のナショナリストなら、「女性や子どもを」ではなく、「国民を過激なイデオロギーから守る」と言うべきではないか。
「子どもがいるか、いないか」は女性たちを分けるイシューになることもある。が、いま、すべての女性たちは米国の教育をめぐる動きには警戒したほうがいいと思う。なぜなら、これは明らかに家父長制に関することだからだ。子どもたちが知ることのできる世界を狭め、自分たちの決めた枠に閉じ込めようとする人たちは、そのうち女性たちにも同じことをしようとする。
昔、世界に東西冷戦なんてものが存在した時代に、東欧の共産主義国で禁書となっていた本を英国から密輸していた人たちがいたという話がある。家父長制に反対する女性たちも、子どもたちに禁書を密輸するようなアティチュードを持たなくてはならない時代がきたのかもしれない。米国は影響力の大きな国だ。私の単なるパラノイアかもしれないが、「おんな子ども」の時代が復活しないよう、しっかりと目を開けていなければならない。

ライター・コラムニスト。英国在住。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)など著書多数。新刊に『地べたから考える——世界はそこだけじゃないから』(筑摩書房)。