ブレイディみかこのSISTER "FOOT" EMPATHY
"他者の靴を履く足"※を鍛えることこそ、自分の人生を自由に歩む原動力となる! 真面目な日本女性に贈る、新感覚シスター「フット」談
※ ブレイディさんの息子が、他者の感情や経験などを理解する能力である"エンパシー"のことを、英国の定型表現から「自分で誰かの靴を履いてみること」と表現。著作内のこのエピソードが多くの反響を呼び、社会現象となった。

英国で、インセル(非自発的な独身者)・カルチャーの低年齢化に警鐘を鳴らすドラマが大きな話題になった。Netflixの「アドレセンス」である。英国のストリーミング作品で初めて、テレビ番組を抜いて週間視聴率1位となり、Netflixでも71カ国でストリーミング1位になったという。
英国首相が国会で取り上げたり、共同制作者の一人を官邸に招いたりしてすでに2025年を代表するドラマになった感がある。
この作品は、同級生の少女を刺殺した容疑で逮捕された13歳の少年をストーリーの中心に据え、その家族や警察、学校などの背景を描いていく。少年は当初少女を殺害した理由を明かさない。SNSで有害なミソジニーを撒き散らしているアンドリュー・テイトのようなインフルエンサーの影響について語るのは大人たちだ。また、大人たちは何のことだかわからずに見過ごしていたSNSの投稿の絵文字から、殺害された少女が、容疑者の少年を「インセル」と暗に嘲笑し、いじめていたことも刑事の息子の指摘でわかってくる。こういう子どもの犯罪ドラマを見ると、最初に抱くのは「加害者の家庭に問題があったのだろう」という偏見だ。しかし、「アドレセンス」では、少年の家族はどこにでもいる平凡な人々で、虐待も育児放棄もない。どちらかといえば家族は信頼関係で結ばれている。つまり、実生活では「ここに問題があった」という原因が見つからない。だからこそ、子どもたちへのSNSの影響が語られるきっかけになっているのだ。
「マノスフィア(Manosphere)」とは、〝man〟+〝sphere〟の造語で、直訳すれば「男の世界」「男界隈」にでもなるだろうか。「男の権利」「男らしさ」を追求する反フェミニズム的でミソジニー的なネット上のコミュニティや、そうしたコンテンツを提供して影響力を持つようになったインフルエンサーたちのネットワークまでをそう呼ぶ。英国と米国の二重国籍を持ち、元ボクサーでインフルエンサーのアンドリュー・テイトは、「マノスフィアの王」と呼ばれ、Xのフォロワー数が1000万人を超えている。
自らをミソジニストだと呼ぶ彼は、さまざまな女性蔑視的発言でメディアを騒がせ、複数の女性に対するレイプや人身売買、組織犯罪などの容疑で2022年にルーマニアで逮捕され、起訴された。
わたしの大学生の息子によれば、彼が中学生の頃は、アンドリュー・テイトについてしゃべっている友人はいなかったらしい。子どもたちも彼のコンテンツを見るようになったのはコロナ禍以降だろうというのだ。特に、ロックダウン中に体を鍛えるためにフィットネス動画を見ていたら、アルゴリズムでマノスフィア的コンテンツ(その多くが筋肉増強サプリなどを宣伝している)が出てきて、そこから入って行ったティーンが多く、低年齢化が進んだのではないかと彼は言う。
「アドレセンス」の脚本を共同執筆したジャック・ソーンは、ネット上でのこうしたインフルエンサーたちの思想の浸透力についてリサーチしたそうだ。が、彼を驚かせたのは、マノスフィア的インフルエンサーたちのコンテンツそのものではなく、むしろ、思春期の若者たちが「なぜ女の子に好かれないのか」を説明するために、インセル思想を取り入れているという事実を知ったときだったそうだ。
例えば、ドラマの中に、刑事の息子が父親に「80/20の法則」について説明するシーンがある。「女性の80%は、20%の男性に惹かれる」というインセル・カルチャーと深くつながる概念は、女性が性の市場を支配していて、多くの男性たちは選ばれることはないのだという被害者意識と結びつく。考えてみてほしい。片思いに悩んでいる中学生が、こういうことをネットで読んだら、「だから僕はモテないのだ」と納得してしまうのではないか。そして、これがマノスフィア的インフルエンサーたちが撒き散らすミソジニーと悪魔合体したら……? どんなことになるかは想像するだけで背筋が寒くなる。そもそも、思春期の恋なんてうまくいかない。好きな人には好かれないし、失恋もするし、交際を始めてもうまくいかず、眠れない夜を経験しながら、ティーンは大人になっていく。それが、何の実地経験もないうちから、「お前がモテないのは80/20の法則のせい」「悪いのは支配的な女たち」みたいなコンテンツで頭をパンパンにされ、相手を一人の人間ではなく、「邪悪な女たちの一人」と見なすようになったら、少年たちは恋愛を「やるか、やられるか」のバトルとしてしか捉えられなくなるのではないか。
殺害される少女もまた、SNSで少年をいじめ、恥をかかせていた。こちらもまた、恋愛や人づき合いの実地経験が浅いため、「インセルはキモい」という感情をそのまま少年にぶつけた。SNSが存在しない時代だったら、ふつうに学校で出会って、好きになってふられて泣いて、という思春期の一ページで終わっただろうに、なんでここまで男女対立的で暴力的な顛末になるのかと思うと、子どもの世界はSNSを映す鏡、という事実に行き着くしかない。前述のジャック・ソーンは、英国も16歳未満のSNS利用を禁止すべきだと発言した(オーストラリアでは、2024年11月に16歳未満のSNS利用禁止を議会で可決している)。SNS規制でインセル・カルチャーの低年齢化を防ぐことができるのかはわからない。しかし、そうした思想を拡散しているインフルエンサーたちはSNSで莫大な収益と影響力を手にしており、トランプ米大統領も彼らを巧みに使って再当選を果たしたといわれているのだ。
「ミソジニーや有害な男性性と闘うには、女性が声を上げることと言われたので大きな声を出してきた。声を上げるだけじゃなくて、そんな思想を持つ男性の靴を履けと言われたので履いてみた。でも、女性への暴力は止まらない。誰か、とにかく止めてほしい」
先日、ラジオを聞いていたら、若い女性DJがこのドラマの感想として、こんなことを語っていた。地べたでのつながりや他者の靴を履くといった半径5メートル内での行動はいまも大事だ。が、ミソジニーや家父長制的思想を拡散している装置について真剣に考えるときが来たと思う。この装置は、男性至上主義的世界を望む権力と結びつき、それ自体が巨大なマノスフィア化する可能性があるからだ。

ライター・コラムニスト。英国在住。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)など著書多数。新刊に『地べたから考える——世界はそこだけじゃないから』(筑摩書房)。