人種、セクシャリティ、エイズ。さまざまな社会的差別と闘う “抵抗運動”が、安易にブランド化され消費されていく。そんな現代の風潮に疑問を投げかける
1979年、21歳だった私は、当時秘密裏に発行されていたLGBT向け新聞の新米記者で、ニューヨーク市内の政治的闘争の取材が担当だった。当時は、レーガン大統領とキリスト教右派がさまざまな局面で結託し始めた、恐ろしい時代の幕開けだった。とりわけ忌み嫌われていたゲイやレズビアンたちは、警察権力による暴力と格闘していた。同時に彼らは、ゲイバーやレズビアンバーが公然と行っていた人種差別的な入場規制と闘い、家族からの嫌悪の視線にさらされ、職場では本当の姿を隠して振るまわなければならなかった。当時、ニューヨーク市にはゲイの人権を保障する条例もなく、ソドミーは全米の半数以上の州で違法だった。だが同時に、性的少数者であることをあえて公言することにこだわる人々や、セックスやナイトライフ、イマジネーション、そして"抵抗運動"に、新たな局面をもたらす豊かなサブカルチャーの担い手たちも存在したのだ。
1982年、私はタイムズスクエアにあった黒人が集まるゲイバー「ブルース」をニューヨーク市警の警官たちが襲撃し、客たちをたたきのめし、鏡を割り、酒瓶を粉々にするのを目撃した。今もそうだが当時、警官が黒人に暴力をふるっても大半は罰せられずに済んだ。それに怒ったゲイ・コミュニティのデモを放送したテレビ局は皆無だった。唯一の記録は、映画作家のジム・ハバードが撮影したフィルム映像だ。粒子の粗い映像には、さまざまな人種の怒れるゲイやレズビアンが、手製のサインを掲げて集結する姿が映し出されていた。大量生産されたスローガンTシャツも、輝くピンバッジも、プロが作ったポスターもなかった。それが当時の抵抗する人々の姿であり、そこには商業的な側面は一切なかった。
ところが80年代末から90年代初頭には、抵抗運動はアート主体の派手な表現方法に変わっていった。私たちはどうやってそこにだどり着いたのだろうか。最近流行(はや)りのピンク色のプッシーハットや、“黒人の命も命だ”と印刷されたシャツを見れば、そういった表現が現代でも人々の共感を呼んでいることがわかる。その経緯を探るにはまず、ジェニー・ホルツァーやバーバラ・クルーガーら、70年代末に活躍したコンセプチュアル・アーティストに注目したい。彼らは文字を使った明快なアートによって、文化が内包する矛盾に人々の目を向けさせた。その作品は当時、リノベーションが進んで中流階級が移り住み始めたソーホー地区のビルの壁に貼られた。公共空間を使ったファインアートは、当時の広告表現と相まってアブラム・フィンケルスタインら次世代のグラフィックデザイナーたちの創作意欲を刺激した。
フィンケルスタインらは有名な『沈黙=死』のロゴを1987年に作り、のちにそれをACT UP(エイズ解放連合)に寄付した。挑発的なデザインで抵抗を表す手法は、たちまち主流となった。トム・ケイリン、マーリーン・マッカーティ、ローリング・マカルピンやロバート・ヴァスケスらが、ACT UPの一グループ、グラン・フューリーを結成した。1991年からは、エイズ活動家たちの足かけ4年にわたるキャンペーンが繰り広げられた。米国疾病管理予防センター(CDC)の定めるエイズの定義を拡大させることで、エイズに罹患したより多くの女性に治療を受けさせることが目的だった。グラン・フューリーが制作したポスターにはこう書かれていた。「女性たちはエイズに罹るのではない。ただエイズで死ぬだけ」(新種のソーシャル・カレンシーとは?)
SOURCE:「How It Changed ―― The Art of Protesting」By T JAPAN New York Times Style Magazine
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