わかりやすい解釈や分類をはねつける作品を世に送り出し、カタリーナ・フリッチュは女性の目線を形にする稀有な芸術家となった
雄鶏を思い浮かべてみてほしい。毎日欠かさず夜明けを告げ、偉そうに胸を張って農家の庭を闊歩するその姿には、図像学(イコノグラフィー)の観点から見ても長い歴史がある。風見鶏のモチーフとなり、聖ペテロのシンボルとして教会の絵画や彫刻に描かれ、フランスの非公式のマスコット「ルコックゴロワ」としてサッカージャージなどに登場してきたのだ。中国の十二支では、誠実、忠誠、守護の象徴とされている。昔から動物をモチーフとした美術作品は無数にあるが、雄鶏を描いた作品として最も有名なものはパブロ・ピカソの《Le Coq(雄鶏)》(1938年)だろう。その虹色のパステルの描線は、鶏の特徴的な動きや短気さ、そして(ピカソにふさわしく)男性らしさを表している。
だがカタリーナ・フリッチュの雄鶏は、これまでの雄鶏のイメージを塗り替えるものだ。ポリエステルとファイバーグラス製の彫像は、高さが4m以上もあり、あのイヴ・クラインも羨望のまなざしで見たであろう華やかなウルトラマリン・ブルーの羽をまとっている。この雄鶏の彫像は、2年近くにわたってロンドンのトラファルガー広場にある高い台座にとまっていた(現在はアメリカのワシントン・ナショナル・ギャラリーにある)。フリッチュの刺激的な作品とは対照的に、広場の他の3つの台座に鎮座していたのは、ジョージ4世、ヘンリー・ハブロック少将、チャールズ・ジェームズ・ネイピア将軍という、いかめしい顔をした3人の歴史的英雄の伝統的な彫像だ(フリッチュのふたつ目の雄鶏は、ミネソタ州ミネアポリスのウォーカー・アート・センターの彫刻庭園にあり、3つ目は、2月からほかの2つと一緒にロサンゼルスのマシュー・マークス・ギャラリーに展示された)。
トラファルガー広場の雄鶏が2013年に公開されたとき、当時のロンドン市長ボリス・ジョンソンは、ナポレオン戦争におけるイギリスの勝利を記念するこの場所にフランスの非公式なシンボルが降り立ったのは皮肉なことだ、とコメントした。だがフリッチュの雄鶏には国籍がない。「フランス人はこれを自分たちの雄鶏と思い、ミネソタ州の人たちは自分たちのものだと思っています。これは万人の雄鶏なのです」と彼女は落ち着いた声で言う。サイズも色も出現する場所も、「雄鶏」と聞いて想像するものとはかけ離れたブルーの鶏は、固定観念に縛られない自由で活気のある世界の存在を知らせるために、宇宙の裂け目を通って飛んできたかのようだ。
フリッチュは、動物だけでなく、ランタンや貝殻、いちごや傘、聖人や聖母の像など、ありとあらゆるものを空想の世界で遊ばせる。このドイツ人彫刻家は、ポリエステルとファイバーグラスを材料にした特大サイズの彫刻で知られている。マットで明るい色彩には中毒性があり、質感は不気味なほどなめらかだ。誰でも周りにあるものを見て何かしらイメージを想起させられるものだが、その内容は人それぞれの個人的なものだ。
フリッチュの作品は、この人とモノの関係性を押し広げたものだが、少しだけ現実離れしているために、見る者を落ち着かない気分にさせる。意識下にあるものを目の前に突きつけられたようで、不思議と心をつかまれるのだ。彼女の作品は、最初に視覚的な驚きがあり、そのあとすぐに潜在意識に訴えかけてくる――そこは意識下にある空想や迷信の領域だ。作品の多くは、どこか見覚えのあるイメージをモチーフにしており、特にカトリック教会やグリム童話にかかわるものが多い。それを見ると、おぼろげに覚えている幻想を掘り起こされたような気持ちにさせられる。初期の作品の一部は、私たちの意識下にある恐怖をより直接的に表している。たとえば1993年の《Rattenkönig(ネズミの王)》という彫刻作品では、身長が3m近くもある16匹のネズミが輪になり、しっぽを絡ませ合っている。不気味なモチーフを取り上げ、それを私たちが抱く恐怖を象徴するような大きさに拡大したものだ。
おぼろげな不安や夢が具体化されて目の前に出現するということは、どんな意味をなすのだろうか? フリッチュの1988年の大作、《Tischgesellschaft(食卓を囲む人々)》では、32人の無表情な男たちが座っている。作家自身が2001年に説明したところによれば、「アイデンティティが無限の空間に溶けていく」という悪夢を表現したものだが、自分の昔の恋人たちが同じディナーパーティに勢揃いしたらこんな感じになるだろうと想像させられる。しかし近づいて見ると、男たちはみんな同じひとりの人物だとわかる――彼女の当時の恋人で、ドイツのニューウェーブ・バンド「デア・プラン」のメンバーのフランク・フェンスターマッハーだ。
フリッチュの作品は、年月を経るごとにますます曖昧な表現のものが増えていく。2011年には、見慣れたモチーフを簡略化した一連の像をニューヨーク近代美術館の彫刻庭園に設置した。身長170cmのカドミウム・イエローの聖母、コバルト・バイオレット、グリーン、ブラックの3人の聖人、棍棒を持った巨大な灰色の原始人。それらの前を1匹のヘビが這っている。この作品はフリッチュが芸術家として担う重要な役割を示している――彼女の寓意的な彫刻はパフォーマンスでもあるのだ。それはまるでポストモダンなスタンドアップ・コメディのようでもあり、ヘンリー・ムーア、オーギュスト・ロダン、ピカソなど、より著名な彫刻家の作品に囲まれて、批評家・小説家のスーザン・ソンタグが「過激なジャクスタポジション(=並置化)」と呼んだものを実践している。
フリッチュの彫刻が伝えようとしているものを特定することは難しい――しかし「わかりにくい」というのは批判ではない。モチーフになっているのは、どこか見覚えのあるものだ――ネズミ、昔読んだ童話に出てきた果実、蛍光色の聖母、新約聖書のあまり知られていない一節から抜き出した頭蓋骨。だがその作品からは、現代美術作品の多くに見られるような、大量消費や性的・人種的アイデンティティについての批判や主張を導き出すことはできない(しかし、作品を所有したい、そばに置きたいという欲望を刺激されることは確かで、これも作家が意図したことかもしれない。たとえば、いちごを巨大化し、ブルーに塗って、もたれかかって座れるような形状にすると、不思議とそれは店で売っている商品のように見えてくる)。知りえないものを知りたい気持ちにさせ、いくら探しても見つからない答えを探させることによって、彼女は他に類を見ない、すばらしい作品群を作り出してきた。フリッチュの作品は、わかりやすい反応を引き出すのではなく、何とも言いようのない恐怖や欲望を搔き立てる。私たちが取り憑かれている妄想を形にするのではなく、妄想に取り憑かれているという感覚そのものを表現していると言えるかもしれない。
昨年秋、マシュー・マークス・ギャラリーで開催される展覧会の準備に取りかかっていたフリッチュに会うため、ドイツのデュッセルドルフにある彼女のスタジオを訪ねた。私は彼女がモチーフにした動物のひとつが気にかかっていた――プードルだ。この犬種は、アルブレヒト・デューラーやフランシスコ・デ・ゴヤの絵画に描かれたおかげもあって人気となり、19世紀初頭のフランスでは娼婦たちに好まれ、1950年代にはティーンエイジャーの女の子の間で流行し、サークルスカートにプードルのアプリケが縫いつけられた。私が2010年にベルリンに住んでいた頃、芸術家気取りの人々の間で風刺と皮肉を込めてスタンダード・プードルを飼うことが流行(はや)り、生き物をアクセサリーとして利用する行為に違和感を覚えた。1996年にフリッチュは《Kind Mit Pudeln(プードルといる子ども)》を完成させた。4つの同心円上に並んだ犬たちが、幼子キリストを彷彿とさせる赤ん坊を取り囲んでいるという作品だ。ポンポンのような形に毛をカットされたプードルの滑稽さと、赤ん坊を脅すように取り囲むその配置の不穏さが、見事に対比をなしている。見ていると、映画『アイズ ワイド シャット』(1999年)の乱行シーンを思い出し、『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)のラストシーンで、揺りかごの周りに集まってくる悪魔崇拝者の集団を連想させられた。(続きを読む)
SOURCE:「The Master of Allusion」By T JAPAN New York Times Style Magazine:JAPAN BY MEGAN O’GRADY, PHOTOGRAPHS BY BERNHARD FUCHS, TRANSLATED BY NHK GLOBAL MEDIA SERVICES APRIL 16, 2020
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