多彩なジャンルで才能を発揮した、セルジュ・ゲンズブール。音楽と映画、スタイルについて、3人の識者の視点を通して理解したい
MUSIC: "雑食主義"な音楽性 Interview with立川直樹(プロデューサー)
彼の自由で多様なスタイルはちょっと〝ずるい〟ところがいい
© Reporters Associés / Gamma Rapho
「セルジュとの初めての接触は、1970年代初め、映画『ガラスの墓標』(’70)のプロモーションで来日した彼を交えた記者会見にて。彼の音楽についてはその前から知っていました。ビブロスというナイトクラブで、閉店間際のチークタイムになると必ず『Jane B.』がかかっていたので。『BRUTUS』誌のフランスの男特集で彼の取材をすることになり、パリへ出向いたのは1982年。彼も僕も大好きだったボリス・ヴィアンの話をするうちにすっかり意気投合し、ホテルを引き払って、家に泊まるようにと招待してくれたんです」
まるで昨日のことのようにこう回想するのは、立川直樹さん。彼とは価値観をシェアでき、共通点がいくつもあったという。
「僕はビリー・ホリデイとAC/DCを続けて聴くんです。彼もいろいろな要素を共存させる、いわゆる〝雑食主義〟。貴重な存在です」
一方、立川さんが尊敬するのは彼のプロ意識。プライベートではディナーの約束に酔っ払って2時間も遅れて行く一方で、仕事では時間に正確。〝宿題〟をため込んでいても締め切りが近づくとラストスパートで一気に仕上げる。
「『フライ・トゥ・ジャマイカ』の曲も、文字通りジャマイカに向かう機上で、レコーディングの前日に書いたらしいですよ」
と、立川さんは笑う。
「ちょっとずるいところもいいですね。ベースとなる旋律を見つけたら、堂々と〝パクる〟。『想い出のロックン・ローラー』みたいに人の名前だけ連ねて作った歌もある。年をとって声に張りがなくなると歌う代わりにボソボソと歌詞を語る。それがまたかっこいい」
ともに過ごした1週間のエピソードを、取材の15年後に写実的に記した、立川さんの本も必読だ。
欠かせないアルバム2作と、象徴的な4曲
© Alexis Raimbault for Maison Gainsbourg, 2023 ミュゼの地下、企画展スペースの一角。初回の展覧会は『ジュテーム・モワ・ノン・プリュ』だ。国際盤不在によりビジュアルを違えた各国盤(時には海賊盤も)EPが、世界中から集められた(共同コミッショナーのアナトール談)。通路中央に設置されたガラスのショーケースでは、ジャケットの裏側も見られる
メロディ・ネルソンの物語 -Histoire de Melody Nelson- (1971) ひとつのアルバムをストーリー化したところがすごい」とは、立川さん談。ナボコフの小説『ロリータ』を着想源としたシナリオでは、セルジュと少女の間に芽生えた恋が、飛行機事故で散ってしまう。ここでの音楽は、語りにメロディを与える伴奏役だ。
フライ・トゥ・ジャマイカ -Aux armes et cætera-(1979) 原題を直訳すると"武器を取れ...etc.,"。歌詞の着想源はフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」。彼は歌詞の直筆原本をオークションで競り落としたほど、この歌を愛した。しかしメロディはレゲエ。この曲を含む同名のアルバムは、全曲ジャマイカで録音された。
ボニーとクライド -Bonnie and Cylde- (1968) ウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイが実在したアメリカの強盗犯カップルを演じた、アーサー・ペン監督による映画はあまりに有名。当時の黄金カップル、セルジュとブリジット・バルドーはこれをデュエットし、ビデオクリップでも二人になりきった。
ジェーン・B〜私という女 -Jane B.- (1969) 「ジュ・テーム〜」のB面は、セルジュがショパンの前奏曲集 / 第4番ホ短調Op.28-4の旋律にのせてジェーン・バーキンのために書いた、哀愁漂う一曲。歌詞は彼女を示唆する女性の描写だ。彼が無理に高い声で歌わせて、彼女の"ヘタウマ"スタイルの原点が誕生した。
ラヴ・オン・ザ・ビート -Love on the Beat-(1984) ヘビーな化粧を施したセルジュのポートレートをジャケットに据えてスキャンダラスだった、同名アルバムからのヒット曲。ジェーンと離別後にナイトクラブで知り合って関係を持つようになったアジア系のモデル、バンブーの官能的な叫び声を絡めている。
レモン・インセスト -Lemon Incest- (1985) 当時13歳の愛娘シャルロットとデニムのペアルックでデュエットし、近親相姦(とはいえ、精神的な)を仄めかしてまたしても物議を醸した一曲。ただしベースとしたメロディはロマンティックな、ショパンの練習曲第3番。セルジュらしいコントラストだ。
プロデューサー、ディレクター、ライター。音楽から映画、美術、舞台まで活動は広範囲。1998年、1時間に及ぶコンピレーションアルバム『Une heure avec Serge Gainsbourg』(右・マーキュリー)を監修・編集。著作に『セルジュ・ゲンズブールとの一週間』(左・リトルモア刊)がある。
MOVIE: マルチな才能で音楽、俳優、監督まで By乗松美奈子(ジャーナリスト)
「"ゲンズブール&バーキン"の世界にどっぷりと浸かったのは、10代の終わり。昼間は大学に行きつつ、夜間に通っていたアートスクールでのフレンチ・カルチャー好きの友人と、夜な夜なホームシネマをしていました」。
こう語る乗松さんは、仕事でゲンズブール作品に触れる機会も多い。たまたまバレンタイン用商品の資料翻訳をした際に知ったのが、『スローガン』(’69)秘話。ブリジットに振られて不機嫌な彼は最初ジェーンをひどく嫌ったが、監督が企てた二人きりのディナーをきっかけに接近して恋に落ちた、という逸話だ。また同時に、見逃していた『Jane B. par Agnès V.』(’88)もチェック。アニエス・ヴァルダがジェーンに密着した、虚実が交錯するシュールな映画では、1987年2月にパリ・バタクランで開かれたジェーンの初めてのソロ・コンサートの前夜を収録。
「セルジュが『私とわたし(Le moi et le je)』を練習するジェーンについて指導するシーンが観られて、感動」
これだけは観ておきたい3作
©Collection Christophel/アフロ
スローガン -Slogan- (1969) "ゲンズブール&バーキン"伝説の発端となったピエール・グランブラ監督による本作は、ベネチアの映画祭が主な舞台。フェスティバルに招待された、セルジュ演じる売れっ子ディレクターが作る広告フィルムの数々が、最高の見どころだ。二人のファッション、そしてやきもち焼きのジェーンが結局は彼の元を去るというシナリオも意味深い。
©Collection Christophel/アフロ
ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ -Je t’aime…moi non plus- (1976) あまりの妖艶さゆえ、発売元のフィリップスが国際版の流通を禁止した同名の曲とともにスキャンダラスだったセルジュ監督作品。ジェーンはベリーショートにタンクトップ、ジーンズという新しいイメージで、ゲイのカップルに翻弄される役を演じた。共演(写真右)は、アンディ・ウォーホルのミューズだった、ジョー・ダレッサンドロ。
©STROMME FRANCK/GAMMA/アフロ
シャルロット・フォー・エヴァー -Charlotte For Ever-(1986) 自身によるシナリオは、まるでジェーンが彼の元を去った事実へのオマージュ。交通事故で母を亡くしたショックから泣く思春期の娘(シャルロット)は、車に同乗していたアルコール依存症の父(セルジュ)を責め、彼への愛との葛藤に悩む。ストーリーはあまりに暗いが、家をほぼ再現したセットは見もの。監督、音楽ももちろん本人。
本誌でもおなじみ、上智大学卒業後、渡仏してパリ在住30年近くになるフリーのファッションジャーナリスト。ライフスタイルやアート、特にサブカルチャーにも詳しく、本テーマの取材と執筆を担当した。
FASHION: パリシックの基礎となるメンズアイコン By清水奈緒美(スタイリスト)
©Getty Images
「デザイナーに編集者、フランスのモード識者が今もなお意識する、数少ないパリシックのメンズアイコンだと思います」。
こう分析するのは、清水奈緒美さん。
「家族間でも彼を中心にデニムがスタイルとして確立し、もともとは"スウィンギング・ロンドン"だったジェーンも感化されましたね。絶妙なサイズ感など着方にも美意識を感じます。Leeのシャツ(上写真)やミリタリーシャツは彼に倣いベストな古着をとことん探しました。『レモン・インセスト』でのシャルロットのオールデニムにも影響を受けましたね」。
セルジュ愛好の店「アルニス」で、スーツをオーダーしたことも。ちなみに彼がよく着ていたピンストライプのジャケットは、ロンドンのポートベローの蚤の市でジェーンが選んだウィメンズのヴィンテージ。もともとバレエダンサーのジジ・ジャンメールのために作られたレペットの紐靴「ジジ」も、やはり彼女のすすめだ。セルジュは"ジェンダーフルイド"の先駆けだったのかもしれない。
photo: Courtesy of Saint Laurent (右)レペットの「ジジ」。¥60,500/ルック ブティック事業部(レペット) (左)ジャケットはメゾン・ゲンズブールのブティックと、サンローラン リヴ・ドロワ(パリとロサンゼルス)、公式サイト限定。€2,590。https://www.ysl.com
スタイリスト。ファッション誌の編集者を経て、2010年よりスタイリストとして独立。学生時代からフレンチ・カルチャーにも精通。ハイジュエリーやスカーフなど上質なもの選びの審美眼にも定評がある。