さまざまな役柄を演じ、人々を魅了する俳優・佐藤健。彼の主演作で初監督を務め、写真家としても活躍する山田智和と初のフォトセッションが実現。深い愛を胸に秘めた、その素顔に迫る
1989年3月21日生まれ、埼玉県出身。A型。2006年のデビュー以降、ドラマや映画など数多くの作品に出演。「第45回日本アカデミー賞」で優秀主演男優賞を受賞。主演を務めた『四月になれば彼女は』は3月22日公開予定。
山田智和が語る、佐藤健の素顔
『四月になれば彼女は』で佐藤さんとタッグを組んだ山田智和監督。その目に、佐藤さんの人柄はどう映ったのだろうか。
「健くんは誰に対してもフラットで誠実。そして嘘がない。僕がこれまで出会った俳優のなかでも特別に優しい人です。それは決して表面的なものではなくて。たとえば今回は脚本作りの段階から参加していろんな意見をくれました。これだけの解像度で作品と向き合ってくれる俳優と仕事ができるのは、監督としても非常に心強いこと。撮影が始まってからも、長編映画を撮るのは今作が初めてだった僕に対し、自由にやらせてくれた。そういう根底のパッションが健くんは優しい。人間としてかっこいいんですよね」
モニター越しにその芝居を見ながら驚かされることが何度もあったという。
「もちろん感情が高ぶる場面の表情も素晴らしいんですけど、そうした感情を120%の出力で出すお芝居というのは、わりとわかりやすいところではあるんですよね。健くんの芝居のすごさは、もっと繊細なところ――たとえばほんのちょっとした目線の動きや仕草で役の心の動きを表現するところ。そういう一番難しいところに、今作ではトライしてくれました。主演である健くんがそういう最も繊細で難しいことに挑み続けてくれたおかげで、周りの人たちも強く生きられたところはあると思います」
今回のSPURの撮影では、自らカメラを構え、役を通さない、ありのままの佐藤健を捉えた。最も高揚した瞬間を尋ねると、顔をほころばせてこう答える。
「健くんが笑うとうれしいんですよね。きっとその気持ちはこの誌面を読んでいるファンの皆さんと同じだと思う。だから、僕には今回の撮影のお仕事を受ける資格があると思って、今日ここに来ました。健くんの笑顔には嘘がない。媚を売ってヘラヘラと愛想笑いをするようなことはしない。それって今の時代すごく難しい生き方だと思うんですよ。だから、健くんが笑うとついうれしくなるんです」
記念すべき初の長編映画は、佐藤健という最高の俳優を迎えたことで、心に残るラブストーリーへと昇華した。
「主演俳優と監督は一心同体。ある意味、共犯関係です。健くんに背中を預けられたことで僕は自分らしさを思い切り出せた。次はこの作品を超えるような企画でないとオファーしちゃいけないと思っています。ある意味、とても高いハードルができた。このハードルを飛び越えて、また早く一緒に作品を撮りたいですね」
東京都出身。TOKYO FILM主宰。シネマティックな演出と現代都市論をモチーフとした映像表現が特色。演出のほかファッション誌のビジュアル撮影など活動は多岐にわたる。『四月になれば彼女は』は初長編映画監督作品。
佐藤健、答えのない「愛」に向き合った時間
誰もがその言葉は知っているけれど、それがどういうものかを説明するのは難しい。それが、愛というものだ。
「一言で愛と言っても、いろんな種類がありますよね。誰かを守りたいと思う気持ちは愛だと思うし、逆に愛するがゆえに人を傷つけてしまうこともある。恋人に対する感情だけが愛とも限らないですしね。友達や家族に対して抱く愛もある。人と人との間の数だけ愛の形があるのだと思います」
そう佐藤健さんは語る。最新主演映画『四月になれば彼女は』で演じたのは、精神科医の藤代俊。突然姿を消した恋人と、かつて愛した女性。二つの恋の思い出をたどりながら、藤代は愛とは何かを探し求める。
「大切なものを守るためには格好つけてなんていられないじゃないですか。だけど、僕が演じた藤代は自分を守ることを優先した結果、大切なものを手放してしまった。愛を終わらせない方法は、自分のプライドをなげうってでも必死にしがみついて離さないこと。その強い意志が大事なんだなと、演じながら思いました」
どんなに運命的な恋に落ちた二人でも、月日を重ね生活を共にしていくうちに、次第に愛は色褪せていく。愛の経年変化について佐藤さんはどんなことを思うのだろうか。
「中には愛がより増していく人もいるだろうし、それも人それぞれだとは思うんですよね。ただ、仮に愛情が落ち着いてくることがあったとしても、それと引き換えに育まれているものもきっとある。そこに目を向けることができるなら、別にいいんじゃないかなと思います」
愛とは決して恒久のものではない。ひどく繊細で、手をかけなければ花のように容易く枯れてしまう。そうわかっていながら、人は愛が続くことを当たり前のように思い、こまめな水やりを怠る。
「相手が今何を考えているのか、心の内を思いやる気持ちは、誰かと一緒にいるときに絶対に忘れてはいけないもの。でも長く共に過ごしていると、思考するのを面倒くさがってしまうんですよね。藤代はその努力を怠ったことで失敗してしまった。僕も気をつけなければいけないなと学びました」
多くの人は、愛が深まれば深まるほど、相手のことをすべてわかったように思い込む。けれど、それこそが錯覚なのだと佐藤さんは考えている。
「どれだけ一緒にいても結局は他人。人と人は本質的にはわかり合えないものだと思っています。たとえ相手を思いやる気持ちがあっても、やっぱり全部はわからない。でもそこであきらめるのではなく、わかり合えないことを前提として、気持ちを伝えることが大事なんだと思う。もし相手が自分のことを理解してくれないと思うなら、わかってよと言うだけではなく、自分から伝えることも必要。愛は一人では生まれない。二人という関係性があって初めて生まれるものだから。愛を継続するには、どちらか一方ではなく、お互いの努力が大切なんだと役を通じて学びました」
どんなものでも手にした瞬間、やがて失うときが訪れる。終わりが来ることを恐れ、相手を愛することをためらう人も現代には増えてきている。
「その気持ち自体は理解できます。でも、僕自身はそういうことを考えて踏みとどまるようなことはないです。恋愛って始まるときは始まるし、始まらないときは始まらない。自分でコントロールできるものじゃないという意識が僕のなかにはあります」
愛は制御不能だからこそ難しい。愛に溺れるあまり自分でも不可解な行動をとったり、理性のセーブがきかなかったり。そうやって何度も傷つき、心を削られながらも、人はまた恋に落ち、誰かを愛していく。なぜ人は愛を求めるのか。「佐藤さんの人生にも愛は必要ですか」と尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「必要かどうかで言うと、別に必要ではないのかな。今まで愛が必要だと思ったことはなくて。なかったらなかったで、別に楽しくやっていけるし。少なくとも愛に依存するタイプではないと思います」
決してこの答えは冷めているわけでも、愛を信じていないわけでもない。むしろその逆。常に愛を感じられる状況にいるから、とり立てて愛を欲することもないのだという。
「たぶん僕はすごく幸せ者なんですよね。ありがたいことに常に愛があふれた環境で生活をさせてもらっていて。たとえばですけど、Netflixを観ていても愛を感じるし、音楽を聴いていても愛を感じる。バラエティ番組を見ながら笑っているときに愛を感じることもあるし、道を歩いているときにふとベンチに座っているおじいちゃんを見て愛を感じることもある。日常のいろんなところに愛があふれているのを感じるから、わざわざ愛が欲しいと思うこともないのかもしれない」
佐藤さんが愛を感じる瞬間は、どれも特別なものではない。日々の至るところに転がっている、ありふれた場面だ。けれど、つい私たちは遥か遠くの景色ばかりに目を奪われ、足もとに咲いている花の美しさを見落としてしまう。大切なのは、ささやかな日常を慈しむ心だ。
「それこそ愛を向ける対象って、別に人じゃなくてもいいと思うんです。たとえば何か打ち込めるものをひとつ見つけてみる。そして自分の情熱を思い切り注いでみる。それもまた愛だと僕は思います。そうやって愛を自分から放出し続けていれば、自然と周りに愛がいっぱいあふれてくるんじゃないかと思います」
そう結んだ瞬間、クールな面差しに、やわらかな光が射した。佐藤健という人は、どこまでも愛にあふれた人だった。