対立項に見えるものを行き来しあるがまま内含する姿勢
「アスリートとして、もうひとつ突き抜けたいとき、自然に触れて野性味を取り戻すという僕なりのセオリーがあります。普段は都市に住んで、練習場とトラックと自宅を行き来する一日の繰り返し。ルーティン自体は大事だけれど、常に合理的に動くということにがんじがらめになってしまう部分もある。そんなときに自然の中に身を置くと本当に解放されるんです。自由に散策したり、ちょっと走ったりすることで、すごく創造性を掻き立てられます。走るという行為は人間の野生の時代、獲物を狙う狩りから発展していったわけで、原点に立ち返るという意味も含めて、大事にしている時間です」
今も昔も、美しいと思うものは、自然と調和しているもの。人工物でありながら地球上の今ここになくてはならないかのように存在するものに心を奪われるという。年末年始の束の間のオフでは、旅行で念願の鈴木大拙館を訪れ、その佇まいに強く惹かれたそうだ。
「歴史を残す金沢の街全体の雰囲気が好きです。その中にある鈴木大拙館は、外と内の境界を感じさせず、周囲と完璧に調和していて、ずっといたくなるような落ち着きがありました。完全な日本家屋というよりはモダンで、北欧的なミニマリズムもある。大拙さんの国際感覚も反映されているのだろうと感じました」
鈴木大拙は1911年にアメリカ人神智学者ベアトリス・レインと結婚、戦前戦後を通じ世界各地に禅文化を広めた。地理的・時間的な隔たりを超越する彼の思想の普遍性に、中島選手自身、共感する部分があるのでは?
「そうですね、まず自分自身のルーツについて。ナイジェリア人の父から受け継いだキリスト教的、西洋的な考えと、母から受け継いだ日本的な考えが自分の中に同居しています。ふたつの思考的な土台には異なる点もあり、10代のときは、自分の頭の中にある価値観をうまく自分の中で融合しきれないときもありました。今は無理に統合することは考えず、あえて違うものを頭の中に置く状態、異なる特徴を持つものをそのままに持てる力、包容力のようなものを手に入れられたかなと感じています」
理性と野性、合理と非合理、意識と無意識、イメージと現実——対立し、交わらないと思えるものが、中島佑気ジョセフという一個の肉体の中で同時に存在している。内包する世界の広さと複雑さこそ、彼の唯一無二の個性といえる。
世界的トップアスリートに肩を並べた今、中島選手は常々、社会をよりよい方へと導く存在でありたい、と語っている。今の時代について思うことをたずねた。
「現在の合理化、最適化の流れは少し考える必要があると思っています。
僕自身デジタルネイティブだし、大学時代は情報学部で学び、AIやプログラミングに違和感なく触れてきました。しかし、タイパやコスパが重要で、なんでも生成AIに要約させようという今の世界はあまりに窮屈に感じます。特に僕のように何時間もトレーニングをして、何年も積み重ねて、自分の走りを磨いていくという行為をしている者からすれば、少し怖さみたいなものも感じてしまう。
歴史を振り返ると、人間は自身の能力をテクノロジーによって外へ押し出すことで発展してきました。蒸気機関は身体の限界を拡張し、コンピューターは数理的処理を引き受けてきたといえます。AIはその連なりの中で、人間の思考の一部にまで触れ始めている。
すると人間に何が起こるか。込み入った話はAIに相談することにして、人と人とのつながりというものが徐々に少なくなっていってしまうのではないかと。生成AIをツールではなく、自身のメンターにしてしまうというような話も聞きます。人間の喜怒哀楽のようなカオス的部分、あるいは不明瞭なもの。それらの存在を許容できない世界は、少し息苦しいような感覚を覚えます。今の時代、不合理とされるところにも目を向けて、あえて足を踏み込んでみることも大事なのでは。頭の中をいろいろな考えが巡って、まだうまくまとめられないですけど……」
そう言って目を伏せた“疾走する哲学者”は、やがて未来にまなざしを向けこう言葉を発した。
「走るという行為もまた外部化されて、とっくの昔に移動手段や生活手段ではなくなっている今、わざわざ自分の足を使って走りを磨くことは、野性に立ち戻って物事を考えるきっかけになります。僕は、あらゆる物事を目的や手段にするところから、もう一歩先に行きたいと思っているんです。ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』の中で、人間の文化は遊びとして成立したとし、スポーツの起源もまた純粋な遊びにあると論考しました。もちろん、今やスポーツはいやが応でも最適化を重視しなければならない時代です。けれども僕は同時に、原点にある遊び、自由な創造性は絶対に忘れないようにしたい。一見相反するふたつの価値基準を両立できるのが、自分だと思っていますから」