陸上・400m日本記録保持者、中島佑気ジョセフ選手。2025年の東京世界陸上で6位入賞の快挙を成し遂げた彼はまた、あらゆる時代の文学と哲学書を耽読し、深い洞察とフィロソフィーを持つ。知性と野性を縦横無尽に駆ける新世代のアスリートの、今を捉えた。

【中島佑気ジョセフ】疾走の哲学。「過度な最適化を強いる世界に対して、自由な創造性で走り抜けたい」

陸上・400m日本記録保持者、中島佑気ジョセフ選手。2025年の東京世界陸上で6位入賞の快挙を成し遂げた彼はまた、あらゆる時代の文学と哲学書を耽読し、深い洞察とフィロソフィーを持つ。知性と野性を縦横無尽に駆ける新世代のアスリートの、今を捉えた。

SPUR4月号に登場した中島佑気ジョセフ
SPUR4月号に登場した中島佑気ジョセフ

ジャケット¥724,900・シャツ¥233,200・パンツ¥233,200/ザ・ロウ・ジャパン(ザ・ロウ) ベルト¥35,200/TOMORROWLAND MEN(アンダーソンズ)

本格的なファッションシュートには初めて臨んだという中島選手。192cmのしなやかな体躯からにじみ出るインテリジェンスにスタッフも魅了された。「スタイリングの一つひとつに自分の知らない一面を引き出されるようで楽しかったです。普段から友人と買い物に行ったり、ファッションには興味があるほうですが、特に海外遠征では必ず現地の古着店を訪れるようにしています。その土地のカルチャーや歴史をつぶさに観察できるので」と語った。

SPUR4月号に登場した中島佑気ジョセフ

コート¥489,500・シャツ¥173,800・パンツ¥214,500・靴¥170,500・ネックレス¥159,500/ジルサンダージャパン(ジル サンダー) ソックス/スタイリスト私物

陸上を始めたのは、小学生時代にウサイン・ボルトの自伝を読んだことがきっかけ。「彼みたいにチャーミングなスタイルで、人を魅了するキャラクター性と力で、金メダルを獲りたい!と夢中になりました。幼い自分の陸上へのあらゆる欲望が一冊の自伝の中にデザインされていたんです。でも、自分がプロ陸上選手として活動することになってからは、やっぱり『誰かになろう』という志し方はあまりいいことではないな、と考え直すように。読んだ当時の熱狂を心に留めつつも、自分は自分の等身大のところから道を切り拓いて、自分だけの価値をアスリートとして作れれば。そう思うようになりました」。

SPUR4月号に登場した中島佑気ジョセフ

ニット¥810,000・パンツ¥360,000/クリスチャン ディオール(ディオール)

花柄のニットとハーフパンツに「普段はしないスタイルで意外でした。可愛いですね」とはにかむ。「陸上で自分の走りを構築するためには、イメージする身体を現実の身体にフィードバックすることが必要。その過程は想像したものを形にするデザイナーや建築家の仕事に通じるものがあるのではないでしょうか。創造性におけるリンクを感じます」。

SPUR4月号に登場した中島佑気ジョセフ

ニット¥173,800・シャツ¥192,500・パンツ¥214,500/ジルサンダージャパン(ジル サンダー)

陸上400mは、短距離種目では最も距離が長い“究極の無酸素運動”と呼ばれる。「長くも短くもある400mという距離の特殊性。そこに惹かれる部分はあります」と自ら選んだ競技について語る。「100mと違うのは、走りの中にスパートをかける、ギアを上げる、フローするという戦略的な要素があること。とはいえ長距離ではないので、一瞬でスピードを出す爽快感もある。そのためには意思を介在させず体にすべてを任せる状態に自分をもっていく必要があるんです。そしてやっぱり“きつい”。どれだけ技術やスピードがあったとしても、最後はみんなぶっ倒れるということがわかっている。その恐怖の中でパフォーマンスを出し切るには精神力が重要になってきますね」。

合理の枠にとどまる限り、 進化することはできない。論理や意識を超えた先にあるものを目指す

SPUR4月号に登場した中島佑気ジョセフ

シャツ¥173,800・ネックレス¥159,500/ジルサンダージャパン(ジル サンダー)

哲学者のように思索し、文学者のように空想するランナー

2025年9月、世界陸上男子400m予選。23歳にして44秒44という日本記録をマークした瞬間、中島佑気ジョセフ選手の内面ではどんなことが起きていたのだろうか。

「走っているときは本当に刹那的で。でも濁りのない純粋な精神状態で挑んだとき、本当に思いのままに生きることができる。その心境にぴったりくる言葉を、鈴木大拙の禅についての本を読んでいて見つけたんです。ちょっと待ってくださいね、そのまま思い出せるだろうか……」。まもなく彼の口からついて出たのは、江戸初期に生きた臨済宗の僧侶、至道無難の和歌だ。

——生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき

「まさに生きていながらも意識的には死に近いような、そして自由でもある。レース中、自分をコントロールすることはほぼできません。事前に鮮明なイメージを構築しながらも、最終的には神の見えざる手のようなものに導かれて走るように感じます。ゴールしてようやく意識が戻って『日本記録が出た』。自分にこんな力があったんだと後から実感する」

古今東西の書物を諳んじて、自分だけの言葉で論じる彼のインテリジェンスにも驚かされる。SPUR2026年1月号の翻訳文学特集へのアンケートでは、江川卓訳のドストエフスキー『地下室の手記』のほか福田恒存訳のシェイクスピア戯曲などを挙げて深い洞察を語った。幼い頃から一貫して紙の本を愛する読書家だ。

「同年代の子どもたちが親しんでいた娯楽にはあまり関心がなくて、ずっと地図を眺めているような子どもでした。世界にどんな都市があって、どんな世界遺産があって……と思い描くのが楽しくて。あとは家に本がめちゃくちゃたくさんあったので、それを片っ端から読んでいました。遊びの感覚が少しずれていたのだと思います。好奇心が旺盛で、空想することが大好きでしたね。特に子どもの頃に読んだミヒャエル・エンデの『はてしない物語』は、今までで一番没入した本。陸上におけるイメージの喚起力について、この物語から得た部分はすごく大きいと思います」

SPUR4月号に登場した中島佑気ジョセフ

活字の世界に没入して、読んだ情景を映像化する体験は、走る前のイメージトレーニングにつながり、競技での集中を生み出した。緻密に世界を構築するシミュレーションの力を、中島選手は想像力とは少し違ったニュアンスで“空想力”と表現する。空想の力で、自分に起こるすべてを頭の中にプログラミングしていく。そうすることで、レースの最中は意識を手放すことができるという。具体的にはどんなふうに?

「アップを終えて、スパイクを脱いで、監督の話を聞いて、バスに乗って、音楽を聴いて、招集所に行って、ジムでユニフォームに着替えて、ウェアはどちらの足からはくのか。それぞれの場面でどんな気持ちでいるのか、細かいところまで鮮明に、動きと感情をリンクさせながらイメージします。レース本番では、シミュレーションした動きと感情は8割ぐらいの淡い状態で残っていて、無意識的に流れに従う感じになる。心理状態を自分が望むべき方向に導くことができるんです」

子どものときから空想が好きだから、空想したことを現実化する作業が楽しいと、こともなげに笑う中島選手。パフォーマンスを磨いていくための積み重ねにも、彼ならではの融通無碍な精神性が感じられる。

「たとえばあるレースでベストを出して、戦略がはまったとします。その後同じ戦略で走るのは2、3回。それ以上固執すると成長を阻害してしまう。いかにその戦略が合理的に見えても、あえて一度逆の視点に立つ。停滞を防ぐためにも、不合理に思える戦略をいったん採ってみるんです。短期的に失敗するかもしれないけれども、長期的にはその失敗の経験が絶対に生きてくる。合理の枠にとどまっている限り、進化することはできない。そう考えるようになったのは、鈴木大拙『東洋的な見方』を読んだことが転換点になっているかもしれません」

それまでは読書を通じて論理的、合理的に思考することに有益性を感じてきた。最近はむしろ手段や目的ではなく、自分を自由にするマインドセットのひとつと考えている。と、こちらも愛読する哲学者・國分功一郎の著作『目的への抵抗』『手段からの解放』を挙げて語った。

SPUR4月号に登場した中島佑気ジョセフ

対立項に見えるものを行き来しあるがまま内含する姿勢

「アスリートとして、もうひとつ突き抜けたいとき、自然に触れて野性味を取り戻すという僕なりのセオリーがあります。普段は都市に住んで、練習場とトラックと自宅を行き来する一日の繰り返し。ルーティン自体は大事だけれど、常に合理的に動くということにがんじがらめになってしまう部分もある。そんなときに自然の中に身を置くと本当に解放されるんです。自由に散策したり、ちょっと走ったりすることで、すごく創造性を掻き立てられます。走るという行為は人間の野生の時代、獲物を狙う狩りから発展していったわけで、原点に立ち返るという意味も含めて、大事にしている時間です」

今も昔も、美しいと思うものは、自然と調和しているもの。人工物でありながら地球上の今ここになくてはならないかのように存在するものに心を奪われるという。年末年始の束の間のオフでは、旅行で念願の鈴木大拙館を訪れ、その佇まいに強く惹かれたそうだ。

「歴史を残す金沢の街全体の雰囲気が好きです。その中にある鈴木大拙館は、外と内の境界を感じさせず、周囲と完璧に調和していて、ずっといたくなるような落ち着きがありました。完全な日本家屋というよりはモダンで、北欧的なミニマリズムもある。大拙さんの国際感覚も反映されているのだろうと感じました」

鈴木大拙は1911年にアメリカ人神智学者ベアトリス・レインと結婚、戦前戦後を通じ世界各地に禅文化を広めた。地理的・時間的な隔たりを超越する彼の思想の普遍性に、中島選手自身、共感する部分があるのでは?

「そうですね、まず自分自身のルーツについて。ナイジェリア人の父から受け継いだキリスト教的、西洋的な考えと、母から受け継いだ日本的な考えが自分の中に同居しています。ふたつの思考的な土台には異なる点もあり、10代のときは、自分の頭の中にある価値観をうまく自分の中で融合しきれないときもありました。今は無理に統合することは考えず、あえて違うものを頭の中に置く状態、異なる特徴を持つものをそのままに持てる力、包容力のようなものを手に入れられたかなと感じています」

理性と野性、合理と非合理、意識と無意識、イメージと現実——対立し、交わらないと思えるものが、中島佑気ジョセフという一個の肉体の中で同時に存在している。内包する世界の広さと複雑さこそ、彼の唯一無二の個性といえる。

世界的トップアスリートに肩を並べた今、中島選手は常々、社会をよりよい方へと導く存在でありたい、と語っている。今の時代について思うことをたずねた。

「現在の合理化、最適化の流れは少し考える必要があると思っています。

僕自身デジタルネイティブだし、大学時代は情報学部で学び、AIやプログラミングに違和感なく触れてきました。しかし、タイパやコスパが重要で、なんでも生成AIに要約させようという今の世界はあまりに窮屈に感じます。特に僕のように何時間もトレーニングをして、何年も積み重ねて、自分の走りを磨いていくという行為をしている者からすれば、少し怖さみたいなものも感じてしまう。

歴史を振り返ると、人間は自身の能力をテクノロジーによって外へ押し出すことで発展してきました。蒸気機関は身体の限界を拡張し、コンピューターは数理的処理を引き受けてきたといえます。AIはその連なりの中で、人間の思考の一部にまで触れ始めている。

すると人間に何が起こるか。込み入った話はAIに相談することにして、人と人とのつながりというものが徐々に少なくなっていってしまうのではないかと。生成AIをツールではなく、自身のメンターにしてしまうというような話も聞きます。人間の喜怒哀楽のようなカオス的部分、あるいは不明瞭なもの。それらの存在を許容できない世界は、少し息苦しいような感覚を覚えます。今の時代、不合理とされるところにも目を向けて、あえて足を踏み込んでみることも大事なのでは。頭の中をいろいろな考えが巡って、まだうまくまとめられないですけど……」

そう言って目を伏せた“疾走する哲学者”は、やがて未来にまなざしを向けこう言葉を発した。

「走るという行為もまた外部化されて、とっくの昔に移動手段や生活手段ではなくなっている今、わざわざ自分の足を使って走りを磨くことは、野性に立ち戻って物事を考えるきっかけになります。僕は、あらゆる物事を目的や手段にするところから、もう一歩先に行きたいと思っているんです。ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』の中で、人間の文化は遊びとして成立したとし、スポーツの起源もまた純粋な遊びにあると論考しました。もちろん、今やスポーツはいやが応でも最適化を重視しなければならない時代です。けれども僕は同時に、原点にある遊び、自由な創造性は絶対に忘れないようにしたい。一見相反するふたつの価値基準を両立できるのが、自分だと思っていますから」

SPUR4月号に登場した中島佑気ジョセフ

ニット¥810,000・パンツ¥360,000・靴¥165,000・ソックス¥31,000/クリスチャン ディオール(ディオール)

撮影とインタビューを終え、テーブルの上のドリンクや軽食をすすめると、礼儀正しく「じゃあ、ひとついただいて行ってもいいですか? 僕、グミ好きなんです」とにっこり。中島選手はすがすがしい余韻を残してスタジオを後にした。

Yuki Joseph Nakajimaプロフィール画像
Yuki Joseph Nakajima

2002年東京都生まれ。400m日本記録保持者。小学6年で陸上を始め、東洋大学在籍中の’22年世界選手権出場で頭角を現す。’24年パリ・オリンピック、’25年東京世界陸上を経て、’26年9月のアジア競技大会、世界陸上アルティメット選手権に向けて調整中。富士通陸上競技部所属。

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