「過去に比べて私たちの時代は、香りの感覚が乏しくなってしまったわ」。マンディ・アフテルがそう言ったのは去年4月のこと。そのとき私たちは、カリフォルニア州バークレーにある彼女の家の裏庭の、イチジクの木の下に座っていた。そこはちょうどローズガーデンの端で、ツンとした芳香のために特別に選ばれたバラが咲いていた。強烈な精彩の花々は庭の端まで咲き広がり、彼女の敷地と、カリフォルニア料理に革命を起こした有名なレストラン「シェ・パニース」は、フェンスによってどうにか隔てられているようだった。67歳のアフテルは小さなくしゃみをし、乾燥してつかえたような喉からやっと声を出した。そして、その春風邪のせいで「いろいろなものを見逃しているようで悲しくなるのよ」とつぶやいた。
PHOTOGRAPH BY AYA BRACKETT
"いろいろなもの" とは、アンティーク・アンバーグリス、100年前の桂皮、トルコのイスパルタ製ローズオイル、マダガスカルから輸入したウォーターボトル入りのバニラ・アブソリュート(溶液に浸出させて抽出するオイル)、アイリスルート(ニオイアヤメの根茎)バター、タヒチのクチナシ、鹿の麝香(じゃこう)などのこと。これらはこの庭から数メートル先のクラフツマンスタイル(20世紀初頭にこの州で流行した建築様式)の、2階建てのアフテル家に納められている。そこに暮らすのは彼女と、その夫でビジネスパートナーであるフォスター・カリー。壁にはマッコウクジラ、ジャコウネコといった動物学の図が飾られ、棚には朽ちかけた19世紀の香水の本が何冊も並ぶ。窓から降り注ぐ太陽光はいくつもの琥珀色のボトルを通して屈折し、床に小鹿の柄のような光の斑点を描いている。そう、ここがアフテルの営む「アフトリエ・パフュームズ」だ。この小さな会社が、天然香水のマニアからカルト的ともいえる熱狂的な称賛を浴びている。アフテルは家の中に入る前に続けた。「これまでほとんどの人は、マクドナルド並みの嗅覚しか備えていなかったのよ」
アフテル、 カリフォルニアのローズガーデンにて。
アフテルが調達し、研究する自然原料には、世界最古の贅沢品で何千年にもわたって珍重されてきた香料が含まれる。これらの原産地はエキゾチックなうえ、驚くべき歴史物語も伴うので彼女が惹かれるのは当然だろう。だがアフテルの自然原料への情熱はもとより、その一貫した姿勢と、1世紀以上も香水業界の主役を務めてきた合成香料と天然香料の混合を拒む態度はとりわけ稀有である。
1800年代末に市場に導入された合成香料は、有名な香水のほとんどに使われている。アフテルによると、何十もの分子からなる天然香料と は異なり(レモンオイルは約20種、ローズオイルは100種以上の分子から構成されている)、大抵の合成香料は単一分子で構成されるため、香 りに複雑な深みが欠けるらしい。香料の化学は1868年に、トンカビーンズの主要成分であり、ナッツやタバコ風の匂いがするクマリンの合成物質が誕生してから始まった。その翌年に科学者たちは、バニラの成分でベビーパウダーの香りに似たヘリオトロピンを合成。さらにその後、化学者たちの手によって、スズランやライラックといった十分な油分を生成しない"ミュートな(香りを抽出できない)花" の香りの模倣方法も解明された。「合成香料がなければ、シャリマーもレールデュタンも、シャネルNo5も生まれなかった」と、「バイ・キリアン(By Kilian)」の創設者キリアン・ヘネシーは言っている。(続きを読む)
SOURCE:「The Rarest of Them All」By T JAPAN New York Times Style Magazine
BY ALICE GREGORY, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO
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