毎年、そろそろ衣替えでもしようとクローゼットの奥にしまってあった段ボールを引っ張り出すたび、ぎょっとせずにいられない。「な、な、なんだこれは。どうしてこんな、野暮ったい服しかないのだ……!」 自分がどんな冬服を持っていたのか、すっかり忘れているのである。忘れるだけならまだしも、もう少しマシな服を持っていた気がして、餌を媚びる野良犬のように何度も未練たらしく箱の底を漁あさる。しかし、いくら探しても、ないものはない。どうやらこれが現実なのだと私はようやく受け入れるのだが、そのあとも尚「おかしい、おかしい」とブツブツ文句を垂れる。サンタからのプレゼントが不服だった子供同然、いつまでも自分のセンスに腹を立てているのである。
二十代の頃、私は自分がどのような服装を好き好んでいるのか、全くわかっちゃいなかった。感情の起伏が激しいのだから、きっと攻撃的な服が好きに違いないとあたりをつけて挑んでみたこともあるが、しっくりこない。ポップさが必要なのかもしれぬとカラフルな色遣いに走っても、長続きしない。余白を作ろうと極度にシンプルな服装に手を出したところで、やはりピンとこないのである。
たまに知り合いで、どう見てもお洒落とは言い難いものを堂々と身にまとい、それでなんだか成立してしまっている人がいる。私はほうとため息を漏らして、「やっぱり、あーでなきゃねえ」と感心する。粋だの野暮だのの次元を超えて、その服はもうその人の生き様の一部になっている。「私はこれを着るのだ」という確固たる意志が布地にまで浸透し、なんだか有無を言わせぬ迫力が漲みなぎっているのである。私のように、「この服を着たらどういう人間に見られるだろうか」なんてみみっちいことをいちいち気にしていては、一生辿りつくことはできぬ境地だろう。
それでも三十代を超えてからは、血迷っておかしな服を買うことも滅多になくなった。趣味でない店にまで何かあるかもと踏み入れることはなくなったし、クローゼットにもどことなく統一感のようなものが出始めた。
二十代の頃よりは自分に似合うものが摑つかめてきているのではあるまいか。私は悦に入り、「あっちもいいし、こっちもいいしと服に踊らされているうちは、結局自分が定まっていないんだよねえ」と知ったような口を利いた。「この服を着るのなら自分はこういう人間のはず」と強引に、逆説的に、何者かに定まろうとしていた人間とは思えぬ発言である。しかし年月を経て経験も積んだ今、私はもうかつてのような節操のない服の選び方とは無縁になったのだ。
私は毎年自信満々に冬服の段ボールの蓋を開ける。そして永遠に小便の止まらぬ小僧の石像のように固まり、ア然とするのである。「ど、ど、どうしてこんな野暮ったい……」。いつも、自分のイメージよりも冴えない服しか入っていない。今年も着たいと思えるものが数える程度しかない。自分という人間が定まっていない何よりの証である。
だが私は衣替えをするたび失望し、それでもまだ諦めるものかと、せっせせっせとワードローブを入れ替えてきたのだった。一着買えば、一着捨てる。そうすれば、いつか「自分を体現してる」と胸を張って言えるようなクローゼットになるのだと自分に言い聞かせて。しかし、先月のことだ。そろそろ冬服を出そうと準備しておいた段ボールの中に飼い猫が入り込み、お気に入りのニットもセーターもカーディガンも、片端から食い千切られてしまった。手のひらほどの穴が汚く開いている衣服を手にし、途方に暮れた私はその晩に、二十代の頃に抱えていた、寄る辺のない孤独と不安の感覚を久しぶりに思い出した。自分が何者であるか、わからない。自分がどういう人間であるか、わからない。あの懐かしい感覚。二度と会いたくない友と再会したような気分であると同時に、なぜか私は、そのわからなさに安堵しているのだった。
過ぎた季節の衣類を段ボールにしまう時、私は過去の自分を小さく葬っていたのかもしれない。そして半年前に詰めた段ボールの中で、葬った自分が小さく生まれ直していますように、と期待していたのかもしれない。マシな服が見つからず、がっかりしていた気持ちの正体は、いつまでたっても生まれ直せていない自分への失望だったように思う。
猫がずたずたに食い千切ってしまった冬服をあらかたゴミ袋に押し込んだ私は、空になった段ボールを見下ろした。その時、私は何者でもなかった。暖房の効いた部屋で、私はひとり、生まれたばかりの自分を祝福した。
(本谷有希子)
プロフィール/本谷有希子
1979年生まれ、石川県出身。2000年「劇団、本谷有希子」を旗揚げし、主宰として作・演出を手がける。’08年上演の『幸せ最高ありがとうマジで!』で第53回岸田國士戯曲賞を受賞。小説家としても活動し、著作に『ぬるい毒』『嵐のピクニック』など。’16年、『異類婚姻譚』(講談社)で第154回芥川龍之介賞を受賞。
― 特別編 ―
誰の心にもある、ささやかで大切な記憶
クリスマスに読む、冬の服のはなし
毎週日曜日にお届けしている本企画。今月は特別編として「クリスマスに読む、冬の服のはなし」をお届けします。同感したり、くすっと笑ったり、気持ちがあたたかくなったり……きっとあなたにも、この季節だけの「ファッションストーリー」があるはず。
日本発のモード誌『SPUR』は参加型の新企画「SPUR ナショナル・ファッションストーリー・プロジェクト」を2016年4月より始動しました。このプロジェクトは、皆様のファッションにまつわるエピソードを、SPURが物語としてまとめていくものです。お寄せいただいたエピソードのうち、こちらのコーナーでご紹介させていただいた方には、同時に掲載する描き下ろしイラストをポストカードにしたものと、iTunesギフト1,500円分を差し上げます。性別や年齢は問いません。あなたのファッションとのエピソードを応募してみませんか? 詳しくは特設ページにて。