向田邦子さんのおしゃれの流儀。唯一無二のスタイルを紐解く

脚本家、小説家、随筆家として、今も読み継がれる名作を残す向田邦子さん。彼女はまた、優雅と洗練を知る生粋のスタイリストでもあった。昭和の時代、自由に自分だけの人生を選びとった人の、おしゃれの流儀をたどる

脚本家、小説家、随筆家として、今も読み継がれる名作を残す向田邦子さん。彼女はまた、優雅と洗練を知る生粋のスタイリストでもあった。昭和の時代、自由に自分だけの人生を選びとった人の、おしゃれの流儀をたどる

3カ月のサラリーを、ひと夏のたった一枚の水着に費やす

スイムウェア¥100,100(参考価格)/ボッテガ・ヴェネタ ジャパン
スイムウェア¥100,100(参考価格)/ボッテガ・ヴェネタ ジャパン(ボッテガ・ヴェネタ) イヤリング¥101,200(予定価格)・ハンドバッグ「セリーヌ アントワネット ミディアム」〈H16×W27×D9〉¥605,000(予定価格)/セリーヌ ジャパン(セリーヌ バイ エディ・スリマン)

22歳のとき、心に決めた。中途半端な気休めの反省をやめよう。ほどほどのもので我慢することもやめよう。そして、アメリカの雑誌で見た黒の水着で、真っ青な海で泳ぐ。その欲望をかなえるためだけに、3カ月の貧乏暮らしをした。その爽やかさを向田さんは「手袋をさがす」(『夜中の薔薇』所収)で振り返っている。この夏、まずはその痛快な贅沢の仕方を真似してみよう。

自分が臆さないように、8㎝のヒールを履く

ストラップシューズ〈ヒール8㎝〉¥158,400/セルジオ ロッシ
ストラップシューズ〈ヒール8㎝〉¥158,400/セルジオ ロッシ カスタマーサービス(セルジオ ロッシ) ブラウス¥275,000/グッチ クライアントサービス(グッチ) スカート¥ 271,700/ジルサンダージャパン(ジル サンダー) キャスケット「エマ・コード」¥126,500/エルメスジャポン(エルメス) イヤリング¥101,200(予定価格)/セリーヌ ジャパン(セリーヌ バイ エディ・スリマン) ソックス¥3,630/インターナショナルギャラリー ビームス(コンリード)

晴れの場ではハイヒールを履いて"気取る"。向田さんは身長153センチ、自分より大きな男性たちに囲まれると、急に威勢が悪くなる。と、「臆病ライオン」(『無名仮名人名簿』所収)で綴った。身長が実際より高く見えると喜び、8㎝の安定感あるヒールの靴を、たくさん持っていた。

小さな怒りを秘めた少女時代の美しさを、覚えている

ミニドレス¥330,000(予定価格)/プラダ クライアントサービス(プラダ)
ミニドレス¥330,000(予定価格)/プラダ クライアントサービス(プラダ)

1976年に執筆された週刊連載のエッセイ「忘れ得ぬ顔」では、内気な女の子が、はにかみと当惑にほんの少しの怒りをまぜたような表情をしている瞬間を見逃さず、「生きている顔を見た」と感じた。その続き「あいさつ」では、駆け出し時代の思い出と、年齢を重ねた今の自分とを比べて、少しずつ長いものにまかれていることへの自覚を告白する。向田さんが初心として失いたくないのは、もしかして頑なさや怒りを秘めた、少女の反骨心のようなものではないだろうか。思いを馳せ、甘やかなフリルと花柄のミニドレスを纏う。

スカーフを自由に纏う

スカーフ「カレ 90・弓形連結」¥88,000/エルメスジャポン(エルメス)
スカーフ「カレ 90・弓形連結」¥88,000/エルメスジャポン(エルメス) イヤリング¥101,200(予定価格)/セリーヌ ジャパン(セリーヌ バイ エディ・スリマン) ドレス¥79,200/オーラリー 中に着たブラウス¥42,900/リトルリーグ インク(ピリングス)

生前の向田さんを知る人が、印象に残るスタイルとして挙げる、スカーフのあしらい。宝飾品をほとんどつけなかったという彼女にとって、日常的に華やぎを添え、変化を加える、機能的な小道具だったのかもしれない。たくさんのコレクションが残されている。

たったひとつの選択を、自分ひとりで、責任を持って

ドレス¥423,500/ジルサンダージャパン(ジル サンダー)
ドレス¥423,500/ジルサンダージャパン(ジル サンダー) キャミソール¥19,800/スティーブン アラン シンジュク(スティーブン アラン) かごバッグ¥45,100/ヴァジックジャパン(ヴァジック) パンプス〈ヒール9㎝〉¥152,900/トッズ・ジャパン(トッズ)

子どもの頃から「いいもの好きのないものねだり」。そんな向田さんに、明治生まれの両親はデパートの子ども服売場で、好きな服を選んでいい。すこしたったら見にくるから。と告げた。ただし、一年に1枚だけ。あとで泣いて取り替えることも、文句を言ってもいけない、と。たったひとりで、たったひとつを選びとる。服だけでなく、人も、なにごとも。

あの日の傘 Text by 山崎まどか

俳優 岸本加世子さんが語る
ありし日の向田邦子さんのスタイル

二十歳前後で深く触れ合った、年上の人気脚本家の素顔、横顔

岸本加世子さんが初めて向田邦子さんと会ったのは、まだ10代の頃だった。
向田さんが脚本を書いたドラマ「源氏物語」(’80 )の衣装合わせのとき。岸本さんは初めて会う脚本家に対して緊張していた。向田さんはそんな彼女を見てすぐに、愛情深く肩を抱くように歓待してくれたという。今も忘れられない出会いの場面だ。

岸本さんが向田さん脚本の連続ドラマ「あ・うん」のさと子役にキャスティングされたのは、そのすぐ後のことだ。自分の両親ともう一人の男性の複雑な関係を見ながら大人になっていくさと子は、向田邦子さんの分身とも言える役である。

あまり撮影現場に足を運ぶことのない向田さんが、「あ・うん」の現場には何度か訪れて、よく向田さんの妹、和子さんの店である「ままや」でも会食をした。

「あるとき、店を出たところの路地で、くしゃくしゃになった紙袋をふっと握らされたんです。見たら、アフリカ土産の石のついたシルバーの指輪が入っていた」

一緒に食事をするときは、隣に座って料理を取り分けてくれた。とても優しかったのと同時に、じっと観察されている感じもした。洋服や器を選び取る、向田邦子さんの厳しいまなざしは俳優にも、人間そのものにも注がれていた。

岸本さんは彼女が選び取った女優だった。「〝加世子は私が女優にしますから、私に預けて〟と、当時のマネージャーにも言ってくれていたそうです」

自分は幸運にも、向田邦子のドラマに「間に合った」最後の世代だと岸本さんは言う。
「向田先生の洋服でよく覚えているのは、頭にスカーフを巻くスタイルと、エルメスの白いシャツ。すごく素敵でした」。よく響く澄んだ笑い声も心に残っている。

最後に会ったのは向田さんが台湾に旅立つ2日前。「向田先生が初めてプロデュースを手がけた『わが愛の城ー落城記より』を京都で撮影しているときに、陣中見舞いにいらして。お昼に嵐山で湯豆腐をご馳走になったんです。帰ってきて、ごちそうさまでしたって挨拶して立ち去ろうとしたら、撮影所の階段の下から先生に呼び止められた。〝加世子、次は(「あ・うん」のさと子に)子どもがいるからね〟って」

向田邦子さんの中では、「あ・うん」はもっと長いクロニクルとして書いていく予定があったのだ。それを見るのはかなわない夢になってしまった。

岸本さんは向田さんの遺品である傘を大事に取ってある。シンプルだが、さりげなく洒落た木製のハンドルといい、つややかな黒い生地といい、いかにも向田邦子の審美眼にかなったものという風情を持つ、逸品である。これはかつて原宿にあった小料理店に残されていたものだという。

「台湾に行かれる直前、そこでお食事なさっていたみたいなんですけど、降っていた雨がやんだので、向田先生は傘を忘れていってしまった。それで、そこのお店のご主人がどうしたらいいだろうと思っていたら、作家の遠藤周作先生が〝その傘は岸本加世子くんに差し上げるべきだ、(彼女が)持っているべきだ〟って言ってくださったそうなんです」

岸本さんは遠藤周作さんときちんと話したことはなかった。彼は向田さんから岸本さんの話を聞いていたのだろうか。それとも「あ・うん」のファンだったのかもしれない。

「私でいいんでしょうか、って思ったけれど、せっかくだからと、お店に受け取りに行きました」

インタビューが終わる頃、窓の外から春雷が聞こえてきた。

「向田先生が今の話を聞いていらしたのかもしれない」

そう言うと、岸本さんは今まで一度も使わず大事にしまっていたその傘を開いて、桜雨の中を去っていった。

岸本加世子さんの傘 向田邦子

夏がくるたび、最後のお別れをしに向田さんのご自宅を訪れた暑い日を思い出すという岸本さん。形見の傘は44年間ずっと手もとに

岸本加世子
ジャケット¥220,000・スカート¥154,000/アオイ(ファビアナフィリッピ) イヤリング¥440,000・リング¥885,500/TASAKI
岸本加世子プロフィール画像
岸本加世子

きしもと かよこ●静岡県生まれ。17歳で、久世光彦演出による伝説の連続テレビドラマ「ムー」(’77)でデビュー。向田邦子作品では「あ・うん」「幸福」(ともに’80)、「続あ・うん」(’81)など晩年の代表作で重要な役を演じた。向田さんの没後も、ドラマスペシャル「父の詫び状」(’86)の語りをはじめ、随筆の朗読なども多く、作品世界に欠かせない存在。

向田邦子プロフィール画像
向田邦子

むこうだ くにこ●1929年、東京生まれ。ドラマ「阿修羅のごとく」をはじめ数多くの脚本を執筆する。’80年『思い出トランプ』に収録の「花の名前」ほか2作で直木賞受賞。随筆に『父の詫び状』『男どき女どき』など。’81年8月22日、台湾での旅行中、飛行機事故で死去。