「世の中には、さわらなければわからないことがある」。そう話すのは、全盲の文化人類学者で、国立民族学博物館(以下、民博)教授の広瀬浩二郎さんだ。「見せる」展示だけではない、誰もが楽しめる博物館づくりを目指し、「ユニバーサル・ミュージアム」の実践研究に20年以上取り組んでいる。従来の視覚優位の博物館のあり方、現代社会のあり方を問い直すことで、多様性を尊重する社会について考えてみたい。
目が見える人にこそ、「触る」ことの豊かさを知ってほしい
博物館や美術館で、「作品に手を触れないでください」という但し書きを一度は目にしたことがあるだろう。古今東西、世界各地のミュージアムでは、言うまでもなく「見る」こと、「見せる」ことを前提に展示が構成されている。一方、広瀬さんが提唱するユニバーサル・ミュージアムで実践されるのは、見ることではなく「触る」こと。触ってもいい展示ではなく、「触らないとわからない」展示として、あえて常識をひっくり返す。
1歳半で左目の視力を、13歳で右目の視力も失った広瀬さんは、中高の6年間を盲学校で学んだ。1987年に視覚障害のある学生として初めて京都大学文学部に入学し、同大学院で文学博士号を取得。2001年から総合研究大学院大学が併設されている民博に勤務し、日本史・文化人類学の研究をしている。それまで博物館と縁がなかった広瀬さんだが、民博に着任してから博物館に深く関わるようになった。触る展覧会を普及させることが、今はライフワークのひとつになっている。
「高校の修学旅行で広島の平和記念資料館に行ったとき、展示資料がすべてガラスケースに入っていて、何も触れませんでした。思えば、博物館に行って楽しかった原体験がないんです。でも10年ほど前に資料館に再訪したら、少しだけ触れる資料がありました。原爆の熱でぐにゃっと変形してしまったコカ・コーラの瓶でした。あの感触はいまだによく覚えていますし、原爆の悲惨さを肌で感じ取ることができました。
『見学』という言葉が示すように、博物館は目で見ることを大前提とした施設です。じゃあ見ることができない人はどうすればいいのか。博物館を視覚障害のある人が楽しめる場所にすることも、当事者である自分の役割なのかもしれない。民博にきて、初めてそう考えるようになりました」
広瀬さんが勤務する国立民族学博物館の外観。
障害がある人もない人も、誰もが「利用しやすい」ことを意味する「アクセシビリティ」が注目されて久しい。障害者や高齢者などのニーズに配慮した施設づくりは、昨今の国際的なトレンドとなっている。だが広瀬さんが掲げるのは「単なるアクセシビリティの確保や弱者支援だけで終わらない」、誰もが楽しめるミュージアムの創造だ。
「厳しいことを言うと、そもそもアクセシビリティとは、障害者が健常者と同じレベルの生活ができるように、マジョリティの『基準』に合わせることです。そこから示唆されるのは、『障害者<健常者』の不等号の構図であって、対等な関係性ではありません。
ユニバーサル・ミュージアム運動を広げるうえで、健常者と同じように視覚障害のある人にも自由に博物館に来てもらいたいという思いが根底にあるのは確かです。しかし、来館者の9割以上は晴眼者であるという現実を考えたとき、『視覚障害がある人のための触る展示』というふうに括るのは違うのではないか。目が見えない人の鑑賞法の疑似体験にとどまらず、目が見える人にとって『触る』とはどんな意味を持つのか。展示を企画する段階で、自分の意識が変わっていきました」
民博の常設展示「世界をさわる」コーナーにある、イヌイット・アートの作品、ホッキョクグマの石彫像。
インターネットやスマートフォンが普及し、いつでもどこでも簡単に情報にアクセスできるようになった現代は、視覚優位の時代といわれている。より速く、より多くのことを伝えられるのが視覚情報だが、見るだけではわからないのが触覚情報だ。「視覚メディアに支配され、視覚に頼って生きている人たちに、視覚以外の感覚の可能性を実感してもらいたい。目が見える人にこそ、『触る』ことの豊かさを体験してほしい」と広瀬さんは言う。
コロナ禍を逆手に、触る意義を伝えた大博覧会
「ユニバーサル・ミュージアム―さわる! “触”の大博覧会」開催期間中の民博の外観。(写真提供:国立民族学博物館)
2006年、広瀬さんは民博で初の企画展を担当し、「さわる文字、さわる世界 ―触文化が創りだすユニバーサル・ミュージアム」を開催した。19世紀に点字が作られる以前はどのような触読法があったのか、人間の試行錯誤の軌跡をたどれるよう、触って楽しめる模型などを展示した。
この企画展を端緒に、ユニバーサル・ミュージアムの理念を普及させる取り組みを本格的に開始。全国各地から講演や体験型ワークショップ、展示アドバイザーなどの依頼が増えていった。その後、コロナ禍の2021年に、これまでの活動の集大成として開かれたのが、大規模な特別展「ユニバーサル・ミュージアム―さわる! “触”の大博覧会」だった。
絵画や彫刻などをはじめ、国宝のレプリカやインスタレーションなど、約280点の作品や資料が集結した同展は、触ることでより深く作品を理解する機会を提供した。それも単に手で触れるだけでなく、作品の上に寝転がったり音の振動を感じ取ったり、さまざまな「触」を体感できる、これまでにない内容だ。
「ユニバーサル・ミュージアム―さわる! “触”の大博覧会」に出展された、わたる(石川智弥+古屋祥子)の『てざわりの旅』。耳なし芳一の姿をモチーフにした木彫像の右手だけが樹脂で作られ、人の肌のような感触が再現されている。©わたる(石川 智弥 + 古屋 祥子)
展示作品の仏頭のレプリカは、つるつるに見えるが、実際に触ると目のラインや鼻のカーブなどの繊細な感触が指先や手のひらに伝わってくる。「顔に触れる」という普段はあまりできない体験を通じて、物理的にも心理的にも作品との距離が縮まる。一見するとごつごつした石のオブジェは、触ると表面に緻密な細工が刻まれていることがわかる。目の見える来場者は、見るだけではわからない作品の魅力に気づかされる。
「ユニバーサル・ミュージアム―さわる! “触”の大博覧会」の出展作品。厚さ5ミリの石を無数に積み上げることで「時間の可視化」を表現した、北川太郎さんの『時空ピラミッド』。(写真提供:国立民族学博物館)
「会場の中央あたりに、短冊状の白い布を2,000本ぐらい天井から吊り下げて、そこをかき分けて進むインスタレーション作品を展示しました。真っ白な視界の中を探索するように進んでいくと、触覚は手だけではなく全身に分布していることがわかります。この作品を体験すると、全身の触覚センサーがひらくんですよ」と広瀬さん。
「ユニバーサル・ミュージアム―さわる! “触”の大博覧会」の会場風景。天井から吊るされた白い布のインスタレーションは、島田清徳さんの作品『境界division-m-2021』。(写真提供:国立民族学博物館)
開幕から1ヵ月間は、緊急事態宣言が発出された状況下での運営を強いられたが、大博覧会は3ヵ月間で2万7千人が来場する盛況ぶりだった。非接触が謳われたコロナ禍の社会情勢を逆手に取り、触ることの楽しさや意義、対面で触れ合うことの豊かさを伝えることに成功した。その後、2023年の岡山をはじめ、滋賀、福岡、大分など各地を巡回。2026年には浜松市の科学館での開催が予定されている。
ユニバーサル・ミュージアムは、「静かに鑑賞する」という博物館の常識をも覆す。
「さまざまな感覚を駆使するユニバーサル・ミュージアムの鑑賞では、来場者が感じたことを自由に口にするので、会話が盛り上がります。距離をゼロにしてモノと人がつながるように、人と人の関係もつながり、そこから触れ合いや対話が生まれる。ユニバーサル・ミュージアムを通じて、そういうことを広めていく価値はあると思っています」
着実に成果を積み重ねてきた一方で、課題もある。目で見て鑑賞する展示に慣れている来場者や学芸員が、視覚から解放され、触る面白さを真に実感することは容易ではない。
「各地で触る展示をやってきましたが、少なからぬ大人たちはじっくり触らない。『見ればわかる』と思っているか、あるいは『触ってはいけない』という常識が刷り込まれているのでしょう。実際に触ったとしても、視覚で得た情報を確認するだけの触る鑑賞になってしまうのは、僕からするともったいないなと思ってしまいます。
視覚を使えば一瞬で展示物の全体像を把握できて便利ですが、触覚を頼りに鑑賞する場合、曖昧な状態から手と頭を動かして全体像を作り上げていきます。ハラハラ、ドキドキがあるし、時間もかかりますが、だからこそ面白い作業でもあるんです」
民博の常設展示「世界をさわる」コーナーにある、「見ないでさわる」セクション。黒い壁の奥には資料が隠されていて、手触りだけで鑑賞できる。
黒い壁の奥に隠されていたのは、韓国の婚礼儀式で花婿から花嫁に贈られる木彫りの雁。夫婦が仲良く暮らすことを誓う意味が込められている。
触覚を使うことは楽しく、奥深い。視覚に依拠する晴眼者と、触覚に依拠する視覚障害者、両者の違いは優劣ではなく、「異文化」である。そんな体験や学びを、博物館がいかに提供できるか。晴眼者が視覚以外の感覚を「他用」しなければ、真の意味での「多様」性は実現しないと広瀬さんは強調する。
「近年学校教育の現場では、アイマスクによる視覚障害者の擬似体験が盛んに行われています。僕は講師を頼まれることもあるのですが、こういった授業には危うさを感じています。目隠しをして歩いたり、階段を上ったりする体験から導き出される子どもたちの感想は、『怖かった』『大変だった』という内容がほとんど。障害を知る入り口としては良いのかもしれないですが、視覚を『使えない』ことの不自由さだけが強調されてしまい、偏見を助長しかねません。
現実的ではないかもしれませんが、アイマスクを長時間つけたままにしてみると、どういうことが起きるでしょうか。見えない代わりに全身の感覚を研ぎ澄まし、普段気づかない音やにおいを感じることができるかもしれません。こういった、視覚を『使わない』、視覚以外を『他用』することから得られる発見や感動こそが大切なのではないでしょうか」
誰もが働きやすい博物館を目指して
民博の常設展示「世界をさわる」コーナーの全景。
障害のある人は、健常者にはない独自の文化を有している。見えないからといって、暗闇を生きているわけでは決してない。障害を取り巻く環境や社会の認識も、少しずつ変わってきてはいる。それでも、障害があることで差別され、弱者として扱われることがある。「障害者<健常者」の構図に支配された視覚偏重社会の壁を、広瀬さんは身をもって体験してきた。
「僕が大学に入学した80年代後半には、点字受験を拒否する大学は少数でしたが、点字の教科書がないのは当たり前だったし、授業の後に先生のところに行って、板書するときは声に出して読んでくださいと頼みに行くのも当たり前でした。でも今はそんなことをしなくても、各大学に障害学生支援室があり、障害のある学生の学習権が当たり前に認められる社会になっています。では卒業後の進路に関してはどうか。僕のような視覚障害者の場合、この30年間で大きな進展がないのが現状です」
広瀬さんの研究室の本棚にずらりと並ぶのは、学生時代から使っている日本史辞典の点訳本。
昔から文章を書くことが好きだった広瀬さんは、修士課程を修了後、新聞記者を目指して新聞社の門を叩いた。しかし「目が見えないなら、車の運転も写真の撮影もできないから無理」と門前払いだった。博士課程に進んでからは、大学や研究機関への就職活動を始めた。2001年に民博に採用されるまで、100機関ほどに応募したが、軒並み不採用だった。中には「視覚障害のある人が大学で授業なんてできない」という無理解もあった。
2016年に障害者差別解消法が施行され、障害のある人への合理的配慮の提供が義務となった。ただし、「過重な負担」とみなされる場合に提供義務はないとされ、基準は曖昧だ。結果として、障害者差別解消法が施行されて10年近く経った今も、障害者の雇用は進まない。
広瀬さんがデスクワーク時に使用している点字のメモ器。PCと接続すると、画面上に出ている文字データが点字で表示される。「コンパクトなので持ち運びも便利」と広瀬さん。
ユニバーサル・ミュージアムを実践するうえで乗り越えるべきもうひとつの課題は、障害がある人の雇用・就労問題だと広瀬さんは言う。
「障害のある学生が学芸員資格を取ることは、制度的には認められています。しかし、障害のある人が学芸員として採用される例はきわめて少なく、僕が知る限りでは、視覚障害のある学芸員は世界的に見ても皆無です。そろそろ、誰もが楽しめる博物館の先にある、誰もが働きやすい博物館を目指すフェーズにきているんじゃないかと思います。
この20年でユニバーサル・ミュージアムの理念は全国に普及し、触る取り組みを行うミュージアムが増えてきたのはよろこばしいことです。今後は障害のある当事者も、博物館で企画する側として関わっていくようになってほしい。そのためには『障害者にでもできること』ではなく、『障害者だからこそできること』を探求する必要があります。さまざまな障害者が学芸員として採用される現場こそがユニバーサル・ミュージアムであり、僕の掲げる理想です」
ユニバーサル・ミュージアム運動の最終目標はどこにあるのか。広瀬さんにとってそれは、「障害/健常」の二項対立を乗り越えることだ。「使えない」人びとが使えるようになる工夫をするのではなく、「使わない」自由を最大限に引き出していく。発想を転換すれば、欠点は利点となる。こういった博物館体験が日常生活にもつながっていけば、社会は変わる可能性がある。
視覚を「使えない」ことを不幸だと嘆くのではなく、「使わない」ことを誇れる人生がある。広瀬さんの活動と生き様が、私たちに気づかせてくれる。「明けない夜もまた楽しい」と。
国立民族学博物館 人類基礎理論研究部 教授広瀬浩二郎さん
1967年、東京都生まれ。13歳のときに失明。筑波大学附属盲学校を卒業後、京都大学文学部に進学。2000年、同大学院にて文学博士号を取得。2001年より国立民族学博物館に勤務。「ユニバーサル・ミュージアム」の実践的研究に取り組み、“触”をテーマとする展覧会やワークショップを全国で企画・実施している。おもな著書に、『「よく見る人」と「よく聴く人」 共生のためのコミュニケーション手法』(共著)『目に見えない世界を歩く』『さわって楽しむ博物館』(編著)など。