東京都世田谷区に住む小学5年生の細井奏志さんが、戦争や原爆に関心をもつようになったのは、母・純子さんの影響だった。東京大空襲を生き延びた祖母から当時の話を聞いて育った純子さんは、日常的に祖母の体験を話していたという。
「祖母は、東京大空襲を鮮明に記憶していました。空から焼夷弾が雨のように降り注いできたこと、赤ちゃんを背負ったまま必死で逃げ回り、気がついたらものすごく急な崖をよじ登っていたことなど、これまでたくさんの話を聞いてきたので、子どもたちにも自然と伝えるようになっていました」
そんな純子さんにとって、いつか行ってみたい場所のひとつが原爆資料館だった。子どもたちに知ってほしいという思いもあり、家族旅行の行き先に長崎を提案。2023年4月、当時小学3年生だった奏志さんは、初めて長崎原爆資料館を訪れた。「展示内容は怖かったけれど、それよりも昔どんなことがあったのかを知りたいという気持ちの方が強かった」と奏志さんは振り返る。
そのとき、たまたまボランティアガイドとして案内をしてくれたのが、長崎で被爆し、40年以上核廃絶を訴え続けてきた三田村静子さんだった。「二度と戦争をしない世界をつくろう」。奏志さんはその日、三田村さんと約束を交わした。
その後も、特攻隊の出撃拠点となった鹿児島の知覧にある平和会館(知覧特攻平和会館)や、広島平和記念資料館を家族とともに訪れ、戦争や核兵器に関する学びを深めていった。
交流証言者になろうと決めた日

奏志さんが家族旅行で訪れた場所で購入した記念品
ある夜、たまたま見ていたニュース番組が、奏志さんを突き動かすきっかけになった。戦争を体験したひとりの男性が、「高齢になったため、語り続けるのはもう難しい」と話していた。被爆者の平均年齢は86歳を超え、人数も年々減少している*。戦争の話を直接聞く機会がなくなってしまうことに危機感を覚えた奏志さんは、体験を継承するために自分にもできることはないかと思い、純子さんを通じて平和記念資料館に問い合わせた。
「奏志から『絶対に連絡してね』と何度も念押しされたので、翌日すぐに資料館に電話をかけました」と純子さん。そのときに初めて、被爆者から引き継いだ体験を語る「交流証言者」の存在を知った。奏志さんに迷いはなかった。長崎の原爆資料館で出会った三田村さんの体験や思いを受け継ぎ、証言者になろうと決意した。

奏志さんがこれまでに読んだ、戦争や原爆に関する書籍。(左から)『はだしのゲン』(1998)『ペリリュー ―楽園のゲルニカ―』(2016)(『焼けたロザリオ』(2009)『被爆マリアの祈り』(2015)
証言者の養成事業は、おもに広島市と長崎市が実施している。長崎市は2014年度から、被爆した人の子どもや孫などに体験を語ってもらう事業を開始。2016年度からは「交流証言者」として、血縁関係のない人にも門戸を広げた。年齢制限はなく、被爆者の体験を受け継いでいきたいという強い意志があれば、誰でも応募することができる。
交流証言者になるためには、被爆者本人との交流を深め、記憶や思いを深く聞き取り、その内容をもとに講話用の原稿やスライド、紙芝居などの資料を作成する。その後、原爆や核兵器に関する講義や話し方研修などを経て、審査に合格すれば正式に認められるという流れだ。現在、長崎では48人**、広島では239人***が交流証言者として活動している。
2024年7月、奏志さんは交流証言者になると決めてすぐに、三田村さんの講話を聞きに再び長崎へ向かった。それから夏にかけては、塾や習い事の合間をぬって講話用の原稿を書いた。三田村さんや長崎平和推進協会のチェックを何度も受け、推敲を重ねながら夏休み中に完成させた。
「遊ぶ時間がほとんどなくて、もうやめたいと思ったこともあったけれど、三田村さんのことを思うと頑張れました。だって三田村さんは『絶対に諦めない』と言う人だから」
約半年の準備期間を経て、12月に見事審査を通過した奏志さんは、2025年3月に初講話を行い、史上最年少の交流証言者としてデビューを果たした。
命が続く限り、絶対に諦めない

三田村静子さんと細井奏志さん(2025年8月9日に長崎で撮影、細井さん提供)
現在84歳の三田村静子さんは、1945年8月9日、爆心地から約5キロ離れた長崎県の福田村(現在は長崎市の福田地域)の自宅で被爆した。当時3歳8ヵ月で、兄とふたりの姉と一緒に縁側で昼食を食べていた。そのとき、目の前がピカッと光り、強い衝撃を感じた。
ご飯の上には放射性降下物と思われる灰のようなものが降りかかった。配給制で十分な米が手に入らなかった当時、ご飯を残すことは許されない行為だった。三田村さんたちは灰が降りかかったご飯をそのまま頬張り、大急ぎで逃げた。
被爆したとき、三田村さんに目立った外傷はなかったものの、後に待ち受けていたのは放射線の影響と思われる、度重なるがんとの闘病だった。当時一緒に縁側にいた姉兄とその子どもたちも、相次いでがんを発病。最愛の娘の美和さんも、がんによって39歳の若さでこの世を去った。
娘の死をきっかけに、三田村さんは体調に不安を抱えながらも、自身の体験を語る活動を始めた。「命が続く限り、戦争の残酷さ、核兵器の恐ろしさ、平和の尊さを少しでも多くの人に伝え、若い世代にバトンをつないでいきたい」。三田村さんの切なる思いは、奏志さんにしっかりと引き継がれている。

三田村さんからもらったオスロのお土産。ほうきのモチーフに「戦争“放棄”」の願いが込められている
学校ではタグラグビークラブに所属し、活発でゲームが好きな奏志さんは、ごく普通の小学5年生という素顔もあわせ持つ。だが講話の際には別人のように真剣な表情に切り替わり、その落ち着いた話しぶりから、「三田村さんが憑依している」と評される。継承活動を始めてから1年間で5回の講話を行ってきたが、参加者の年齢層に合わせて毎回話す内容をアレンジし、「伝わる」ための工夫を怠らない。
「意識しているのは、わかりやすさと親しみやすさ。早口にならないように、なるべくゆっくり話すことを心がけています。以前の講話で、『縁側で食事をした』と言うところを『えんがん』と言ってしまったことがあったので、そういう間違いもなくしていきたいです」
講話以外にも活動の幅は広がっている。2025年秋には、原子爆弾の投下を命じたアメリカのトルーマン元大統領の孫や、広島で被爆し、12歳の若さで白血病により亡くなった佐々木禎子さんの親族らと共演し、英語で紙芝居を朗読した。
姉弟で継承していく

姉の彩夏惠さんが描いた、長崎の鐘を鳴らす三田村さんと奏志さんの絵
奏志さんに触発され、中学3年生の姉の彩夏惠(さなえ)さんも活動を始めた。弟を支える中で、若い世代の語り部をもっと増やしていきたいという思いが芽生えたのだ。現在は、奏志さんが三田村さんと交流を深め、証言者になるまでのストーリーを描いた絵本づくりに挑戦している。
「弟の活動をそばで見て、私にもできることはないかと思い、得意な絵をいかして絵本をつくることにしました。きっかけを作ってくれた奏志には、とても感謝しています」と彩夏惠さん。今後は自らも交流証言者になるために、準備を進めていくという。