【戦争を知らない君たちへ】平和をつなぐため、私たちが知るべき戦争体験〈歌人 馬場あき子〉

95歳の現在まで、歌人として第一線で活躍してきた馬場さん。戦時中は、学徒動員され、工場労働に明け暮れていたという。その透徹したまなざしに戦争はどう映ったのか。当時の体験を取材した

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歌人AKIKO BABA

ばば あきこ●1928年、東京都生まれ。1945年、日本女子高等学院(現・昭和女子大学)に入学。在学中より、短歌を本格的に始める。中学・高校の教員生活を経て、1978年、歌誌『かりん』を創刊。『馬場あき子全歌集』『鬼の研究』など著書多数。その日常を追った映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』が今年公開され、話題を呼んでいる。

3交代で24時間、機械を動かし、飛行機の発動機の台座を作った

歌人 馬場あき子

馬場さんの青春は、戦争の記憶と重なっている。1941年12月8日、太平洋戦争の開戦は、東京の昭和高等女学校2年生のとき。13歳だった。

「その日は冬休み前の試験の日でした。徹夜して、朝はお味噌汁だけ飲んで学校に行ったんですけれど、試験中に、全校生徒はすぐに講堂に集まるように言われて、そこでアメリカと戦争をすることになったと聞かされました。ショックでしたね。『あんな大きな国と戦って、どうなるんだろう』と、みんな、うなだれて教室に戻りました。

でも、街では勇ましく軍艦マーチが鳴っているわけです。真珠湾攻撃が成功したから、『勝った、勝った』と大騒ぎで、提灯行列なんかやっている。そしてアメリカの軍艦に突っ込んだ9人の兵隊さんを『九軍神』と名付けて、軍神として祭り上げたんですね。遺族は表彰されて、お母さんも泣くに泣けず、『息子はお国のために立派に戦った』と言うしかない。そうやって、みんな戦争に利用されていったんです」

しかしお祭りムードは、翌年4月に一変する。米軍のドーリットル中佐率いる16機の爆撃機が日本本土を空襲。東京でも大きな被害が出た。箝口令が敷かれ、空襲のことは隠されたが、初めての本土空襲に、馬場さんも怯えた。

「私たちは、生まれたときから戦争という世代で、太平洋戦争の4年前には日中戦争が始まりました。私は小学生だったけれど、負傷して脚がなくなった兵隊さんや、目の見えなくなった兵隊さんが戦地から帰ってくるから、戦争がどういうものか、ありありとわかる。ただ、直接日本が攻撃されたわけではなかったから、まだ楽観的でした。ところが今回は、開戦からたった4カ月で本土を攻撃された。そこから戦況はみるみる悪化していきました」

当時、「国家総動員法」という法律が敷かれていた大日本帝国。国の人的、物的な資源すべてを政府がコントロールすることが可能で、10代の学生たちも「学徒動員」の名のもと、土木工事や食糧増産、軍需物資の生産に従事させられるようになっていった。

「女学生も学徒動員が始まり、最初は、東京湾にあった海軍の食糧工場で働きました。大きなふるいに大豆をざーっと入れられて、そこから虫のくった豆を選るという作業です。また、東洋一の飛行機工場だった中島飛行機にも動員されて、都内にあった工場の寮に入りました。若い職人が徴兵されていなくなると、代わりに女学校の4年生、5年生が旋盤を回すことになったんです。

もちろん旋盤なんてやったことないから、最初の2〜3カ月は、工員さんの厳しい指導のもと、1メートル以上もある大きな旋盤で訓練するんですね。経験を重ねて1943年の夏には、少女3人で1台の機械を任されるまでになりました。作っていたのは、飛行機の発動機(エンジン)の台座です。すごいでしょう? 少女が作っていたんですよ。機械を止めてはならないというので、8時間ごとに3交代して、24時間体制で機械を回し続けました」

しかしやがて中島飛行場上空にも1日3回、4回と米軍の爆撃機・B29が飛来するようになり、空襲警報が鳴るたびに地下道に逃げ込む日々が続いた。

「空襲のときは、爆撃の衝撃で目の玉が飛び出しちゃうから、目を押さえたり、鼓膜が破れないように耳をふさいだりして、敵機が去るまで地べたに伏せて待つんです。幸い同級生で亡くなった友達はいませんでしたけれど、不幸な目にあった方々はたくさんいました。

たとえば山梨師範学校の女生徒さんたち。2年生、3年生が動員されて寮生活をしていたところ、その寮に爆弾が落ちて全員亡くなったんです。それで死体を運び出したものの、置く場所がなくて、玄関前に山積みにされていたと言うんですね。戦争中は、人間も死んだら、ただの"物"。命の尊厳なんてないんです。山にして積んでおいて、大八車にポンポンと乗せるの。それが戦争というものです」

人間らしく生きることができなくなるのが戦争です

歌人 馬場あき子
執筆活動から、食事まですべて居間の食卓でこなす。この日は、お礼状を書いていた。「いろんな人が面倒を見てくれようといろいろ贈ってくれるから、お礼状を書くのが大変なのよ」。「かくしゃくとした」という形容詞がぴったりの馬場さんは、語り口も切れ味鋭い

終戦の年の1945年、一晩で約10万人が亡くなった3月10日の東京大空襲のときは、「高田馬場の自宅にいて、下町の空が真っ赤に染まるのを見た」という馬場さん。翌月4月13日の空襲では、その自宅を焼失してしまう。

「隣のお屋敷の向こう側に爆弾が落ちて、その爆風と炎がわが家にも押し寄せてきました。私は防火用の水をかぶると、ぶるぶると震えて動けなくなっているお母さんの手を引いて走りだしました。途中、十字路に出て、右に行けば新宿方面、左に行けば早稲田方面。どっちに行こうか迷い、なぜか右の新宿方面に行ったんです。不思議な勘が働いたのでしょうか。左に行けば神田川があったから、逆方向に行く人も多かったんですけれど、そっちに行った人の多くが亡くなったと、あとで知りました。熱くて、神田川に入ったところを機銃掃射されて、川にはたくさんの遺体が浮いていたそうです。

私と母は、何とか命拾いして、はぐれていた父にも巡り合えました。家は焼けてしまっていたけれど、縁の下に埋めておいた山芋を掘り出して、みんなで食べました。おいしかったですね。涙なんか出ませんよ。感傷に浸っている暇はないんです。大事なのは、人より早く走って、食べ物を確保すること。自分の命をどう守るかということしか頭にありませんでした」

その後は、焼け残った近所の家の一間を借りて暮らしていた馬場さん一家。家の跡地に畑を作って野菜を育てたり、釣りが得意だった父が多摩川などで魚を釣ってきたりして飢えをしのいだ。「近所の人たちとはお互い、助け合っていましたね。一方、配給がなくなって、丸裸になっても国はまったく何もしてくれなかった」と振り返る。

「今、ウクライナの戦争をテレビで見ていると、戦争っていうのは、今も昔も同じだねぇって思います。兵器は変わっているけれど、爆弾が落ちたら、そこで誰かが死ぬ。結局、戦争っていうのは、近目で見れば、ひとりひとりの人間が無残に死んでいくっていうことです。それは遠目で、煙が上がるのだけ見ていてもわからないんですね。戦争というものがいかにバカくさくて、国家というものがいかに信用できないか、私は身をもって体験しました。戦争だけは、何があってもするんじゃないと、若い人たちには伝えたいです」

軍国の少女のわれが 旋盤をまはしつつ うたひゐし越後獅子あはれ

(2016年歌集『渾沌の鬱』より)

「学徒動員中の唯一の気晴らしが長唄だった」と馬場さん。「旋盤の機械を回すのにちょうどいい調子の『越後獅子』や『京鹿子娘道成寺』をよく口ずさんでいましたね」。けなげな少女の姿が目に浮かび切ない

ジュラルミンの熱き切子を 返り血のやうに浴びて 造りき特攻機エンジン台座

(2018年歌集『あさげゆふげ』より)

中島飛行場で飛行機のエンジンの台座を作っていたときの様子を詠んだ一首。「戦争を題材にした歌が詠めるようになったのは昭和40年代以降です。戦後すぐは心の整理がつかなくて、戦争の歌は詠めませんでした」

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