2020.09.14

作家・千早 茜さんが綴る、香水と旅

今春、天才調香師を巡るミステリアスな物語『透明な夜の香り』を上梓した千早茜さん。自身の思い出を交えた、香水と旅にまつわる特別な書き下ろしエッセイを公開。

「香りのアルバム」 文/千早 茜

 旅先で撮る写真のように、香りもアルバムに綴じておければいいのにと、よく思う。鼻の記憶はどうしてもこぼれてしまうものだから。

 今年の春、『透明な夜の香り』という香りと秘密にまつわる小説を刊行した。物語の中で調香師が「香りは脳の海馬に直接届いて、永遠に記憶される」と語る。けれど、その永遠には普通はなかなか気がつかない、ひきだしとなる香りに再び出会うまでは。

 これは脳と嗅覚について調べていくうちに知った事柄だったが、自分の願いでもあった。昔の記憶も、昔の夢も、映像や色は頭の中で再現できても、匂いはできない。小さい頃、私はアフリカに住んでいた時期があったのだが、あのかすかに埃っぽい、乾いた空気の匂いは日本では見つけられない。地平線に沈む大きな夕日の匂いも、雨季に降る烈しい雨の匂いも、空を紫に染めるジャカランダの花の匂いも、ない。けれど、脳のどこかにしまわれていて欲しいと切に願っている。遠く離れた場所で、ときおり「ひきだし」を探している自分がいる。

 新型コロナウイルスによる自粛期間中、世界から色がなくなったように感じた。旅行はおろか、ライブにも観劇にも行けず、外食もできない。家の中にも娯楽はあるけれど、奇妙なくらいさらさらと自分の中を通り過ぎていく。なぜだろうと考え、匂いがないせいだと気づいた。オンラインでライブを観ても、ライブハウスの匂いはしない。テレビ通話をしても、話している人の体臭は伝わってこない。家の中には、慣れ親しんだ自分の生活の匂いしかないのだ。映像と音だけの情報は重みがなかった。

 街からも匂いが消えた。マスクのせいだ。匂いが伝わりにくい。自分の蒸れた息の匂いばか りが充満している。

 なにかを探すように、人のいない時間を狙って散歩した。誰もいないとそっとマスクを外して空気や季節の花の匂いを嗅いだ。シャッターの下りた商店街を散歩しているとき、ふっと尾道を思いだした。早朝に目が覚めて、まだひと気のない尾道のアーケード街を歩いていたら、一軒だけ喫茶店が開いていたことがあった。そのときの珈琲の香りと路地裏の猫の匂いが蘇った。ああ、これが「ひきだし」かと嬉しくなった。

 もうひとつ、鳥取に住む友人から庭で育てたハーブが送られてきたことがあった。箱を開けると冷気と共に草花の香りがひろがって、一瞬、目の前が緑に染まったような気分になった。せっかくなのでミントをガラスポットに入れてお湯を注ぐと、数年前に旅したイギリスのホテルが蘇った。歴史のある古いホテルだった。従業員は目が合えば「お茶はどうですか?」と笑顔を向けてきて、「飲みます」と言うと、まるで楽しいクイズをするかのように「どの種類にする?」と私の希望を訊き、なにを選んでも「ラブリー!」と褒めてくれた。銀の盆に銀のポット、山盛りの焼き菓子。滞在中にいったい何杯の茶を飲んだだろう。ある朝、前日の晩に食べ過ぎてしまったと言ったら、「じゃあ、ミントティーは?」とめずらしく給仕さんが提案してくれた。青々としたミントがいっぱいに詰まったガラスのティーポットが目の前に置かれ、「食欲がないなら」とボウルに山盛りのベリーを持ってきてくれた。朝の光の中で見た、透明な緑と赤。あの朝食が旅で一番眩しかったことを思いだした。

 どちらの旅行も一人旅だった。一人で旅をしていると、入ってくる情報量が多い気がする。嗅覚は本能的な感覚だから、人といるよりも一人きりのほうが冴えるのかもしれない。私しか知らない鮮やかな記憶たち。

 自由に旅にでられなくなった状況で蘇った香りの記憶は、世界の豊かさを教えてくれた。未知の感染症に不安を感じる中で、それはとても大きな安らぎだった。自粛中は、紅茶や入浴剤、アロマオイルといった香りのするものにいつもよりお金を使った気がする。香りは心の健康になくてはならないものだと思う。

 そういえば、イギリス旅行中に老舗香水店でひとつ香水を買った。旅先で買う香水は帰国して嗅ぐと、強すぎたり甘すぎたりすることが多く、やはりそれも日常で使うには主張が強すぎるように思え、クローゼットの奥にしまったままになっていた。

 ひさびさにその香水をだして金色の蓋をとった。ロンドンの石畳と灰色の重い空、飴色の棚にずらりと並ぶ香水瓶が蘇る。紺に金字の看板の、憧れの店に入ったときの緊張も。ひとつの香りが引き金となって次々に懐かしい景色や空気が浮かぶ。

 なんだ、ここに保存されていたのかと拍子抜けした。前のように自由に渡航できる日々が戻ってきたら、旅するごとに香水瓶を持ち帰ろうと思った。少々値が張るアルバムだけれど。

ちはや あかね●1979年生まれ。2008年「魚神」でデビュー。翌年、同作で泉鏡花文学賞、’13年「あとかた」で島清恋愛文学賞を受賞。著書に『男ともだち』『わるい食べもの』『透明な夜の香り』など。





透明な夜の香り
千早 茜著
(集英社/1,500円)