真っ青な海と空、白亜のヴィラのコントラストが美しいアマルフィの風景を思わせる香り。もぎたてのレモンやマンダリン、グレープフルーツの爽やかさの奥に、ハーブやフローラルがのぞく。
(50㎖)¥30,800/トム フォード ビューティ
昨年秋、新型コロナウイルスに感染した。自宅作業がメインの仕事をしていて、ほとんど外出もしていなかったので、ショックだった。救いは症状が軽かったこと。一日微熱が出ただけで、ホテルで隔離生活を送っていたときも特に異変はなかった。ところがホテルから帰って、久しぶりに甘いものを食べようとしたところ違和感を覚えた。甘味は感じるから、味覚は失っていないはずだ。でも、味は鈍いし、そのお菓子が本来持っているはずの果実や薔薇の香り、風味といったものがいっさい感じられない。慌てて自分の部屋の化粧品を収納している棚から、香水を取り出した。
ライトブルーのガラスのボトルがイタリアの海を思わせる、トム フォードのマンダリーノ ディ アマルフィ。スプレーをひと吹きしてみたが、無臭の液体がミストになって空中に舞っただけだった。手首につけてそこに鼻を押しつけても、何の香りもしない。すごく悲しかった。何を食べても味けのない日々で、音楽や映画、本に触れても何かが足りない気がした。香りというものがいかに感性を刺激し、喜びを運んでいたのか、初めてよくわかった。それからの私の毎日は、マンダリーノ ディ アマルフィを空中にスプレーするところから始まった。最初はかすかに刺激のようなものしか感じられなかったが、やがて徐々に、少しずつ、失った記憶が蘇ってくるように香りの輪郭が姿を現し始めた。柑橘系の匂いを感じ取ったときは最初、気のせいかと思った。香りを求める気持ちが生み出した幻覚かと思うほど、その匂いははるか遠くにあったのだ。マンダリン・オレンジやシトラスのさっぱりとした香りの中に、ハーブの気配を感じたときはうれしかった。私はこんなに気をつけて、ひとつの香水に全意識を集中したことはなかった。私にとってこの香水は回復の記憶や生きる喜びと切実に結びついている。