パリのエルメス フォーブル・サントノーレ店の階上にはミュゼと呼ばれる一般非公開の空間があって、代々のエルメス家が収集した無数のオブジェが陳列されています。現在、職人たちもインスピレーションを求めてたびたび訪れるというこの迷宮を進んでいくと、鳥獣戯画ふうのフクロウ紳士やヤギおじさんが描かれた球状の「カツラスタンド」や、夜道を照らす蝋燭立てが仕込まれたステッキなど、予想外の珍妙グッズに遭遇。なかでもガルーシャが貼られた美しい単眼望遠鏡は、実際に覗いてみると内蔵レンズの屈折構造で、正面ではなく真横の風景が覗ける仕組みだったり(かつてどこかの淑女が並びのイケメン観客を観察したのか)、花鳥風月が描かれた筒状のラブレターケースはロケットペンシルのように二段式になっていたり(複数の恋人別に収納したのか)、妄想は無限に膨らみます。ジョッキーのユニフォーム図録やアマゾン乗り用のサドルなど、マジメな収蔵物が大部分なのですが、思わずクスっと笑ってしまうオモシロ系オブジェに心惹かれながら、このメゾンの職人はとびきり自由な心をもっていて、ユーモアと余裕にあふれた素敵な人たちなのだわとニヤニヤ想像する2月の昼下がりなのでした。
そんなミュゼ訪問直後の、待望のリップスティックの発表会。3つの色が連なるシンプルでプレイフルな佇まいにアッと驚きながらも、あふれ出る遊び心に納得してしまう自分がいたわけです。
「使い心地がよくて、詰め替えが出来て、美しい。女性らしくて実用性があって、そして楽しい。ピエール(・アルディ)が提案したこのデザインを、最初からとても気に入りました」とアーティスティック・ディレクターのピエール=アレクシィ・デュマ。
エルメスが口紅を創る。きっとパッケージは革に違いない。オレンジ色のレザーかしら。ステッチがあるなら、きっと白。蓋に馬具のディテールがあしらわれていたりして。いや、カレの柄かもしれない―そう単純に考えていた自分が恥ずかしくなったのは言うまでもありません。
「オブジェは機能的でなくてはなりません。心地よく使えること。使う人のエレガンスを引き立てることも。そもそも3代目のエミール(・モーリス)・エルメスが大戦後、事業を方向転換し、妻や娘たちが使うオブジェについて考えたことがはじまりです。娘たちが成長し、自立していく中で、彼女たちに自由でいてほしい、そうエミールは考えました。例えば彼女たちは山歩きやスポーツをする。そこで女性のためのスポーツウェアが生まれました。自立していて、旅もする女性像を念頭に、さまざまなモノが創られたのです」
馬具にバッグにカレにジュエリー。エルメスにはさまざまなメチエがあるけれど、それはメゾンが新たにひとつ、またひとつと、歩を進める際に自然と生まれてきたもの。
「新しいメチエは必然的に生まれます。そして、我々の美に対するアプローチは、エルメスがもつビジョンを日常に寄り添わせるということでもあるのです。例えば、服。服は、女性の内側を表現するものでなくてはなりません。本質というものを誠実に見つめながら、着る人の本質が外側に出ていくことを助ける、という視座です」
アーティスティック・ディレクターのバリ・バレが続きます。「エルメスは、当初から自由な女性を想定していました。思い切ったことに挑戦できる、自立した、個性あふれる女性。だから、今回も自分の内面を表現することを厭わない、つまり外面だけにとらわれない、本質を上手に外に出すことのできる人物を思い描きながら、口紅を創りました」
言葉を重ねるのは、エルメスのビューティ部門のクリエイティブ・ディレクター、ジェローム・トゥロン。「メイクアップは外に向かって発信していくもの。自分は何を感じているか?どう生きているか?外から見た自分と、内なる自分の境界線でもある。そこを考えながら創りました。つまり、自分自身との調和を取る、というコンセプトです」
耳を傾けながら、頭のなかで残像のように重なり始めていたのが、カレと口紅。その人自身に寄り添いながら、存在感を凌駕せずに、美しさを引き立てる。多彩で華麗な色彩も。このリップスティックは、カレと同じ。かたちを変えたものに違いないと。
カレのクリエーションに情熱的に携わってきたバリ・バレはこう語ります。「エルメスでクリエーションするという仕事は、豊かな色彩を提供することなのです」。
シューズやジュエリーのクリエイティブ・ディレクターのピエール・アルディも、チームの要。
「やはりシンプルであることがエルメスらしいと。口紅は小さい。小さいからこそ、配色とプロポーションのさじ加減が大切です。もちろん触れたときの感触も。そして持続可能であるべく、レフィル方式を採用しました。女性がバッグのなかからそれを出したり、収めたり、また持ち運ぶさまから口紅をノマドなものだともとらえつつ、閉める時の音も重視しました。リップスティックだけれど、オブジェでもあるのです」と、アルディ。
なぜ革ではなくラッカー仕上げのメタルを選んだのか?彼の回答は、こんなに単純明快。
「持続可能性と、油分と革との相性を鑑みて、この素材を選びました。また、エルメス=革という固定観念からの脱却も目指したのです」
遊び心と職人技と、機能性と革新とエレガンスと。この口紅には、エルメスのすべてがあります。エルメスの小さな小さなミュゼを旅することのできるオブジェ。触れてみたくありませんか?
クリエーションの詳細は、SPUR5月号(3月23日発売)でご紹介。ご期待ください。