誰も死にたくなんかなかった。でも、死しか残されてなかった

与那覇百子さん Momoko Yonaha
1928年沖縄県生まれ。沖縄師範学校在学中の’45年3月26日、ひめゆり学徒隊として沖縄陸軍病院へ。最前線で負傷兵の看護にあたるも、’45年6月に米軍の捕虜に。「ひめゆり隊生徒222人のうち、123名が戦死しました」。父と二人の姉も沖縄戦で亡くしている。1978年から語り部として、全国各地で戦争体験について語り続けている。2006年からひめゆり平和祈念資料館で活動。


うじ虫に苦しむ重傷兵たち。でも消毒液すらなかった

 戦争末期の1945年3月23日から約3カ月にわたって、沖縄で繰り広げられた地上戦。敗戦色濃い日本には、もはや人的にも物質的にも余裕はなく、民間人を巻き込んでの激戦となった。犠牲者は約20万人。当時、17歳の女学生だった与那覇さんも家族と別れ、221人の学友とともに「ひめゆり学徒隊」として南風原の沖縄陸軍病院へ動員。最前線で負傷兵の看護にあたった。
「沖縄最大の病院ということでしたが、小高い丘に掘られた大小40ほどの壕があるだけで、そこに3000人もの負傷兵が収容されていました。私が担当した第14号は中でもいちばん小さくて、幅と高さは2メートル弱、奥行きも20メートルくらい。地面に板を敷いただけのところに、重傷の兵隊さんが20名ほど寝かされていました。でも、薬や医療器具もないし、軍医さんも看護婦さんも来てくれません。仕方なく、1年先輩の上地貞子さんと、兵隊さんの身の回りのお世話をしていると、ある兵隊さんが『痛くてたまらないから傷口を見てくれ』と言います。それで包帯を解くと、大きな傷口に小さな白いものがびっしりと埋まり、もぞもぞ動いています。うじ虫でした。『女学生さん、取ってくれ』と言われましたがピンセットもありません。そこで小枝を割り箸代わりにして、ひとつずつつまんで取りました。全部取り終えても、消毒液も新しい包帯もなく、腹立たしい気持ちになりました。ひとりが終わると『こっちも頼む』と声がかかります。気持ち悪いなどと言っていられません。お国のために働くのが自分たちの仕事なんだという使命感にかられ、ひたすら働きました」。沖縄の地形が変わったといわれるほどの激しい艦砲射撃と空爆。その間をぬって、食糧を運搬したり、水を汲みに行くのも女学生の仕事だった。
「パーン、パーンと発射音がしたらパッと伏せる。ドーンという着弾音を聞いたら、『今だ!』と次の砲撃までの間、ひたすら走る。まさに命がけです。そして桶に詰めてもらったご飯を壕に戻っておにぎりにします。食糧はそれだけ。最初はひとり分がテニスボール大くらいでしたが、次第にピンポン玉くらいになりました。兵隊さんは次々と亡くなりました。その遺体を埋めるのも私たちの役目でしたが、感傷に浸っている余裕などありません。私たちには眠る場所すらありませんでした。壕の入り口に置いてあった小さな木箱に座って2~3分ウトウトするだけ。それでもちょこっと時間があると、貞子さんとふたりで叙情歌を歌ったりして。それが唯一の慰めでした」

無残な姿になった貞子さん。涙が止まりませんでした

 1カ月が過ぎた頃、悲劇が起きた。第14号が爆撃を受け貞子さんが帰らぬ人となったのだ。与那覇さんはたまたまほかの壕にお使いに行っていて助かった。
「14号に入ると、そこには頭や手足が吹き飛び、バラバラになった遺体が散乱していました。みな見るも無残な姿でした。『貞子さん!』と私は泣きくずれました。貞子さんは1年先輩というだけで、嫌な仕事を率先して引き受けてくれました。兵隊さんの排泄のお手伝いも『ももちゃん、いいよ』『私がやるから』といつも私の盾になってくれた。私がお使いに行ったために彼女が死んでしまった……。申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
 それと同時に、自分もこんなふうに死んでしまうのかと、怖くて震えが止まらなくなりました。心配した婦長さんに『疲れたでしょう。私のベッドで休みなさい』と言われ、40日ぶりに横になると、再び貞子さんのことが思い出され、うわ~っと涙があふれてきました。『貞子さんは一回も横になることなく死んでしまった。せめて一回でも手足を伸ばして休ませてあげたかった』。私は涙が止まりませんでした」
 その後も戦況は悪化する一方で、ついに陸軍病院は南部に撤退することになったが、怪我で動けない兵士や女学生たちは、置いていかざるを得ない状況だった。
「兵隊さんたちの枕元には青酸カリ入りのミルクが置かれました。『生きて虜囚の辱を受けず』ということです。それが日本軍の教えでした。女学生たちは『置いていかないで! 連れていって!』と泣き叫んでいましたが負傷者を運ぶ余力は誰にもありません。私たちは泣きながら壕を後にしました」
 しかし壕を出た与那覇さんたちに待っていたのは砲弾の雨だった。放火を浴びて、次々と倒れていく仲間たち。「血をドクドクと流しながら『卒業したら妹の面倒を見ようと思っていたのに、親孝行できずに母より先に死ぬなんて……』と家族を思いながら亡くなっていった友達もいました。私も生き残った仲間と戦火をさまよいながら何度も死を覚悟しました。壕で出会った兵士に『手榴弾で一緒に殺してください!』とみんなで泣きついたこともありましたが、彼らは壕から私たちを追い出し、自分たちだけで自決してしまった。道連れにしてくれなかった兵士を恨みさえしました」と与那覇さん。
「『一木一草に至るまで死んでご奉仕せよ』というのが日本の軍隊の教え。でも、無念の思いで亡くなった友達やその兵士のことを考えると、今はそれが間違いだったとはっきり言えます。私たちには、死しか残されていなかった。誰も死にたくなんかなかった。みな生きたかったんです」

ひめゆり平和記念資料館
http://www.himeyuri.or.jp/JP/top.html
住所:沖縄県糸満市字伊原671-1 TEL:098(997)2100 開館時間:9時00分~17時25分※入館は17時まで 休館日:無休



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