吹雪のように吹きつける炎の中、息子をおぶって逃げまどいました

橋本代志子さん Yoshiko Hashimoto
1921年東京都生まれ。両国にてメリヤス工場を営む両親のもと、4姉妹の長女として育つ。19歳のとき結婚。一男をもうけたが、当時は「粉ミルク1缶を買うのも大変な時代でした」。3月10日、東京大空襲のとき、夫は近隣の国民学校に駐屯していたため難を逃れたが、両親と妹ひとりを亡くした。東京大空襲の話を、戦災資料センターを中心に語る活動をしていた。取材後永眠。


髪や衣類がチリチリと燃え、息子の口の中にも火の粉が

「みなさん吹雪はわかりますよね。あの雪が全部火の粉だと思ってください。東京大空襲の火災はそんな感じでした」
 終戦前年から、たびたびアメリカ軍による空襲を受けた首都東京。なかでも1945年3月10日深夜から2時間半にわたった大規模爆撃、いわゆる「東京大空襲」は、人口密集地帯の下町を焼き尽くし、一夜にして10万人の命を奪った。当時、本所区亀沢(現在の墨田区両国近く)に住んでいた橋本さんも猛火の中をさまよったひとり。1歳になったばかりの息子・博、両親、そして3人の妹が一緒だった。
「その日は北風の厳しい寒い夜でした。様子を見に行った父が『たいへんだ、いつもの空襲とは違う』と戻ってきました。外へ飛び出すと浅草方面の空はすでに真っ赤に染まり、焼夷弾はまるで豪雨のようにザーーッ、ザーーッと耳をつんざく音を立て降っています。火の手から逃れるように家族で竪川へと向かいましたが、われ先にと川に向かう群衆にのみこまれ、途中で妹・悦子を見失ってしまいました。それが妹との最後になりました。
 やっとの思いで竪川にたどり着いたものの、三之橋の上は地獄でした。本所方面から来る人と、深川方面から来る人が狂気のように押し合い、前に進めません。そこへ大火災で巻き起こった突風が、火の粉を巻き上げて吹雪のように吹きつけてきます。それがみんなの荷物や髪の毛に燃え移り、気がつくとチリチリと燃えている。まさに灼熱地獄です。
 やがて火は川の両岸の倉庫にも燃え移り、巨大なバーナーの炎のように橋の上にバーッ、バーッと襲いかかってきました。最初はお互いに『火がついたよ!』と教えあっていましたが、次第に自分のモンペや頭巾にも火のかたまりが張りついて、他人どころではなくなりました。
 おぶっていた息子の博が『ギャーッ!』と異様な叫び声をあげたので、見ると口の中に火の粉が入っていました。あわてて降ろして口から火の粉をかき出し胸に抱きました。息子を抱いた私の上に、父と母が覆いかぶさり守ってくれました」

おびただしい数の亡骸に、ただ茫然とするばかりでした

「もうここで死ぬのかな」「焼け死ぬのは苦しいだろうな」「でも死にたくない……」。絶望しかけた橋本さんを奮い立たせたのは、「代志子、川に飛び込め!」という父親の怒鳴り声だった。
「突然、父は『おまえは泳げるんだから飛び込め!』と激しく私に攻め寄りましたが橋はかなりの高さです。3月で川の水も冷たい。私が躊躇していると、今度は普段物静かな母が、『代志子、早く!』と厳しい顔で私を叱りつけました。熱風にあおられ、髪の毛が逆立った母の顔は、今でも胸に深く焼きついています。
 見ると、橋の欄干が燃え始めていました。本来は鉄の欄干だったのが、鉄を軍に供出したため、丸太で代用していたのです。これは大変だと思いました。私と息子がいては、父と母の足手まといになるかもしれない。そう思い、博を抱いたまま、夢中で水に飛び込みました。
 刺すように冷たい川でしたが、そこにも火の粉が容赦なく吹きつけてきます。川の水をすくっては子どもにかけ、自分も時々潜っては熱風から身を守りました。無我夢中でした。その後、私と息子は運よく小さな船に乗っていたふたりの男性に助けられ命拾いをしましたが、両親とはそれきりとなりました。父は泳ぎが達者でしたが、母を思って橋に残ったのでしょう。仲のよい夫婦でしたから……。何とか助かったふたりの妹とは、その後再会できました。
 明け方近くなると町はようやく鎮火しましたが、船で川を下る間、たくさんの人たちのうめき声を聞きました。それはボーッボーッと、まるで食用カエルの鳴き声のように、一晩中、あたりにこだましていました。やがて空が白んできて太陽が昇りました。でも大量のすすで空が煙っていたせいでしょうか。見たこともないような濁ったどす黒い太陽でした」
 気がつくと息子とともにリヤカーに乗せられ、病院に向かっていた橋本さん。「そのとき見た光景は忘れられない」と言う。「煙で痛んだ目に映ったのは、変わり果てた町と、おびただしい数の亡骸でした。真っ黒に焦げた焼けぼっくいのようなもの。ぼろ雑巾のようになったもの。風船のようにパンパンに腫れ上がったもの。なかでもつらかったのは子どもとお母さんの遺体です。でも、もう涙も出ません。ただ茫然とするばかりです。
 命を失って、人間はただの“もの”になっていました。戦争とはそういうことなんです。愛しい命を、見るも無残な姿に変えてしまう。戦争は人災です。天災と違って避けることができるんです。今、平和憲法が揺らいでいますが、残された者の使命として、これからも命の尊さをみなさんに伝えていきたいと思います」

その惨状を次世代へ語り継ごうと、平和の祈りをこめて建設された「東京大空襲・戦災資料センター」。貴重な資料や写真が展示されているほか、団体での事前予約があれば、空襲体験者による講話も聴くことができる。
住所:東京都江東区北砂1の5の4 TEL:03(5857)5631 開館時間:12時~16時 休館日:月・火曜