「彫る」という行為はもしかしたら絵を描くよりも作者の念が強く刻み込まれるのかもしれません。版画家・棟方志功が「世界のムナカタ」となって死後も作品が評価されているのは、その思いの強さが吸引力となっているからでしょうか。
1975年に亡くなるまで、版画にとどまらず油彩画や挿絵、包装紙デザイン、映画・テレビ・ラジオ出演など多岐に亘って活躍。メディアに出る文化人の先駆け的存在でもあります。棟方の太いラインの版画のように、濃いキャラが世間にインパクトを与えました。「生誕120周年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」(東京国立近代美術館)では、棟方志功の芸術家ライフの軌跡をたどることができます。
まず、棟方の念力の萌芽を感じたのは、小学校の時から口にしていた将来の夢。「セカイイチ」になると当時から口癖のように言っていて、あだ名が「セカイイチ」だったとか。また卒業文集に書いた夢が叶っている有名人も多く、大谷翔平の目標達成シート「マンダラチャート」もそうですが、夢は実際に書いたり口に出したりすることで叶いやすくなるのでしょうか。
青森市で鍛冶屋の息子として生まれた棟方少年は大志を胸に、独学で絵を描きだします。18歳で雑誌に掲載されていたゴッホの作品「向日葵」に出会い、衝撃を受けた棟方は洋画家を目指しました。ゴッホになろうとしていた20歳の棟方が描いた向日葵の絵を、中学生だった太宰治が購入した、というエピソードも残っています。天才同士引き寄せられるものがあったのでしょうか。
その後、版画に出会った棟方は、遠近法を意識せず、線の強弱によって表現する独自のスタイルを確立し、注目されるように。当初の作品は川上澄生の影響を感じさせ、その中の「星座の花嫁」というシリーズ作品は色や構図にセンスの良さが表れています。そのうち一枚は2人の人物が描かれ、枠の中にはさり気なく「先を行く人 じゃまです」という棟方のコメントが。芸術家として早く成功したいという野心も感じさせます。
棟方は民藝運動の重鎮と出会ったことでさらに活躍の幅が広がります。公募展の規則をはみ出した長大な作品「大和し美し」が陳列拒否となりかけたところ、偶然通りかかった濱田庄司と柳宗悦に見出され、展示が許可。
「落書きでもしたような」文字と素朴なタッチに惹かれた柳は作品を買い上げることを決意しました。これをきっかけに棟方は民藝運動の同人たちと親しく交流し、引き立てられます。
日本民藝館での柳宗悦や河井寛次郎、濱田庄司などと一緒に撮った集合写真も展示。おそろいのメガネをかけ、隣の人と同じ腕組みポーズで場になじんでいます。棟方の成功の理由の一つは、コミュニケーション力と人脈力にもあったようです。
また、棟方の作品は神仏を彫ったものも多く、神様ともつながってネットワークを広げていました。最初の宗教モチーフ作品「華厳譜」や、「二菩薩釈迦十大弟子」のシリーズ、神話に出てくる神々を描いた「門舞男女神人領」、イエス・キリストの十二使徒を描いた「幾利壽當頌耶蘇(きりすとしょうやそ)十二使徒屏風」など。純粋で強いタッチが神々の波動と融合しています。
十大弟子を描いた時は特に前知識がなく、勢いで彫ってあとで名前を当てはめたそうで驚きです。自動書記のような状態で、見えない存在に彫らされていたのでしょうか。「基督の柵」は、茶道雑誌「淡交」の企画で制作した掛軸で、柳宗悦から高い評価を得た作品。幾何学的なキリストの衣服が、3次元を超えた高次元のデザインのようです。
終戦間際、空襲が激しくなってきたので棟方は富山県南西部の福光町に疎開します。自然豊かな福光町で、地元の光徳寺の依頼を受けて襖絵などを作成。表はワイルドなタッチで描かれた「華厳松」ですが、裏面にはおしゃれなデザインと色合いで牡丹や芍薬の絵が。荒々しさと優美さという自然の二面性を表しています。
「法林經水焔巻(ほうりんきょうすいえんかん)」は、福光駅から当時の住まいまでの約2.5キロの道のりを描いた、約13メートルに及ぶ絵巻。風光明媚な町並みの中、親交を深めた人々の姿が描き込まれています。疎開先の町に馴染んでいたのが伝わります。このような絵を描いたら、ますます人気を集め、町の名士として名を残すのは確実です。ここにも棟方のコミュ力の高さや、愛される人柄が感じ取れます。
約6年8ヶ月を福光町で過ごした棟方。物資不足でリンゴの空き箱に作品を彫ったり、版木の入手が困難だった時代、黒地に白い線を彫るという新たな手法を見出します。この技法には、戦後「世界のムナカタ」となっていくポテンシャルがみなぎっていました。彫った線がそのまま輪郭になるので、より自由にワイルドなタッチになっていきます。ベートーヴェンの交響曲をテーマにした「運命頌」「歓喜頌」などは、黒い中にうごめく人々が人間の業を体現しているようです。
1950年代から海外の版画展やビエンナーレで受賞を重ね、小学生の時の夢の通り「セカイイチ」になっていきます。1954年には、妻と長男と一緒に船でアメリカとヨーロッパに渡って見聞を深めつつ制作。ロックフェラー財団による特別寄付で破格の待遇を受けたそうです。1956年にはヴェネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞。青森県新庁舎の正面玄関の壁画や倉敷国際ホテルのロビーの壁画など大きな仕事が増えていきます。
世界的に評価されるいっぽうで、故郷青森への思いも強くなり、東北の自然や恐山、ねぶた、津軽三味線などをモチーフにした版画を制作。「世界のムナカタ」になっても遠い存在にならず、気軽に挿絵や包装紙のデザインの仕事も引き受けていました。亀井堂の瓦せんべいの包装紙が有名で、瓦せんべいにも絵が刻印されていて「食べる版画」として棟方志功のパワーを吸収できます。
世界一になる」だけでなく「日本のゴッホになる」という野望を抱いていた棟方。「大印度の花の柵」はインド旅行帰国後に制作されたもので、白黒のひまわりの花瓶に棟方の自画像が描かれています。有言実行でゴッホになった棟方。でも、波乱の人生だったゴッホよりも、生きている間に世界的に評価されて家族にも恵まれて、幸せだったと思われます。「日本のゴッホになる」夢は、ひまわりの版画で叶えたことにしてちょうど良かったかもしれません。
棟方志功の純粋で力強い版画の魅力は、顔を木にくっつけるようにして彫っていたあの体勢に秘密があるように思います。木という大自然から常にエネルギーを吸収すると同時に浄化されていたのでしょう。見る人にもそんな自然の力を分け与えてくれているようです。
「⽣誕120年 棟⽅志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」
期間:~2023年12月3日(日)
時間:10:00~17:00 金・土曜日は20:00 (入室は閉室30分前まで) 休:月曜日
会場:東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー
東京都千代田区北の丸公園3-1
https://www.munakata-shiko2023.jp/