"他者の靴を履く足"※を鍛えることこそ、自分の人生を自由に歩む原動力となる! 真面目な日本女性に贈る、新感覚シスター「フット」談
※ ブレイディさんの息子が、他者の感情や経験などを理解する能力である"エンパシー"のことを、英国の定型表現から「自分で誰かの靴を履いてみること」と表現。著作内のこのエピソードが多くの反響を呼び、社会現象となった。
ちょうど昨年の今頃、この連載で女子サッカーのイングランド代表チームの活躍と、イングランドにおける女子サッカーの黒歴史について書いた。あれから一年が過ぎ、今年の夏もイングランドは女子サッカーで大盛り上がりだった。FIFA女子ワールドカップで、イングランド代表が決勝まで勝ち進んだからである。「ライオネス」(雌ライオン。サッカーイングランド代表のエンブレムに3頭のライオンが描かれていることから、男子代表チームの愛称が「スリー・ライオンズ」であることにちなんで)という言葉が街のあちこちで聞かれ、昨年のUEFA欧州女子選手権に引き続き、今年も優勝かと期待は膨らんだが、今回は王者の座をスペイン代表に譲り渡した。
と、ここまではいい。ここまではいいのだが、ここから起きたことがわたしを含む世界中の人々を怒らせた。それは決勝戦の試合後、優勝したスペイン代表の選手たちが表彰式で勝利の喜びを分かち合っていたときだった。その晴れがましい場所で、スペインサッカー連盟のルイス・ルビアレス会長が、優勝メダルを授与する際にジェニファー・エルモソ選手の頭を引き寄せ、いきなり唇にキスしたのである。
問題の瞬間をおさめた動画が世界中の人にリポストされ、批判が沸き起こった。こうした声を受け、ルビアレス会長はソーシャルメディアに謝罪動画を投稿したが、国際サッカー連盟はルビアレス会長を90日間の資格停止にし、エルモソ選手は一方的なキスは性的暴行であったと同会長を刑事告訴した。
しかし、何を考えて彼はこのような愚行をしてしまったのだろう。わたしはスペインに親戚がいる(配偶者の姉がイビザ島で結婚して40年以上も住んでいる)ので、かの地では英国よりもスキンシップがさかんで、ハグやキスの文化があることは知っている。しかし、だからと言って口と口のキスは、相手の同意なしにいきなりやって許されるものではない。この会長がそれをやってしまったのは、「自分は同意なくキスしても許される立場」という認識が体に染みついていたからに違いない。このような行為を、世界中の人々に見られるとわかっている表彰式のような場で、うっかりやってしまうということ自体が何かを物語っている。見えない場所ではいったい何をやっているのだろうと思われてもしかたがない。
表彰式から5日後には、スペインのスポーツ相が、「これがスペインサッカー界の#MeToo運動になってほしい」と発言し、スペイン女子サッカー選手会(FUTPRO)に所属する選手81人が、ルビアレス会長が解任されない限り、代表チームに参加しないとして連帯の意を表明した。これには、W杯に優勝したチームの23人も含まれていた。
さらに、9月に入ると、代表チームのビルダ監督が解任された。彼はルビアレス会長と近しい関係にあり、本人も決勝の試合中に女性スタッフの胸に触っているように見える動画が拡散され、批判されていた。そしてルビアレス会長もそれを追うように辞任した。
こうしてエルモソ選手は、スペインサッカー界の#MeToo運動の象徴となり、支持者がどんどん増えているそうだ。もちろん、それは悪いことではない。性的暴力に屈さない女性のロールモデルは重要だ。しかし、エルモソ選手はそもそもそんなことで有名になりたかったのだろうか。スペイン代表チームでエース選手に与えられる「10番」の背番号をつけた彼女は、スペイン代表チームとバルセロナFCの歴代最多得点者だという。男性のサッカー選手だったら、国宝のような名選手としてもてはやされ、宮殿のような屋敷に住み、車や髭剃りローションのCMに引っ張りだこのはずである。一人の素晴らしい選手が、スポーツをプレーする能力ではなく、表彰式で唐突に権力者からキスをされた被害者として世界に名を馳せてしまったことに、男子サッカーと女子サッカーのまだまだ遠い隔たりを感じてしまうのはわたしだけではないだろう。
この一件とシンクロするように、女子サッカーのスペイン1部リーグ「リーガF」に出場する選手たちが、最低年俸をめぐり、ストライキを行うと報道されている。選手たちは最低年俸を2万3000ユーロ(約364万円)からとするよう要求しているが、リーガFは年俸2万ユーロ(約316万円)以上の引き上げを拒否したという。
エルモソ選手が男子サッカーのスター選手たちのような扱いを受けていれば、ルビアレス会長だって、まるで大人が子どもにそうするように彼女の頭をつかんでキスするなどという真似はできなかったはずなのだ。報酬も知名度も、男子サッカーに比べれば格段に低い女子サッカーの選手だからこそ、やっても大丈夫と彼は思っていたのだ。
バルセロナに住む姪っ子から、一枚の画像が送られてきた。この一件の後でバルセロナ市内に出現したグラフィティだという。ルビアレス会長に両手で頭部をつかまれてキスされるエルモソ選手の絵だ。世界中のメディアが掲げたその瞬間の写真の落書きだ。二人の頭部の上には、こんな文字が書かれていた。「RESPECT!」
ほんとうにそれがいま必要な言葉だ。他者への想像力であるエンパシーは大事だが、相手が想像力どころか、目の前にいる人間のことでさえバカにしきって自分の思うままにしようとするとき、わたしたちは「リスペクト!」と叫ばなければならない。それは「人をなめるな!」ということである。
いや、キスした権力者の側にもそれなりの事情があるかも……、と会長の靴を履いてみるのはエンパシーではない。それは「強者の顔色をうかがっている」というのだ。常にエンパシーを使ってすべてを受け入れていると、どんどんなめられて、相手のいいように搾取される。ケアの役割を担わされがちな女性は、そうなることが往々にしてある。
だが、暴力についても、報酬についても、理不尽な状況についても、「リスペクト!」と叫ばなければならないときがある。それをしなければ、わたしたち自身が自分をリスペクトできなくなるからだ。
スペインの女子サッカー選手たちは、いまサッカーシューズの紐を締め直している。シスターたちは、他者の靴を履く前に、自分の靴をしっかりと履こうとしているのだ。
ライター・コラムニスト。1965年福岡県生まれ、英国在住。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)など著書多数。初の少女小説『両手にトカレフ』(ポプラ社)が好評発売中。