【ブレイディみかこのSISTER "FOOT" EMPATHY】互いを自由にするシスターフッド

"他者の靴を履く足"※を鍛えることこそ、自分の人生を自由に歩む原動力となる! 真面目な日本女性に贈る、新感覚シスター「フット」談

※ ブレイディさんの息子が、他者の感情や経験などを理解する能力である"エンパシー"のことを、英国の定型表現から「自分で誰かの靴を履いてみること」と表現。著作内のこのエピソードが多くの反響を呼び、社会現象となった。

ブレイディみかこのSISTER

近所のコミュニティセンターで、中学生対象の数学の補習教室でボランティアをしていた頃のことである。自分は同性愛者ではないかと考え始めたという12歳の少女がこんなことを言っていた。

「『私はロマンティックな意味で、あなたのことが好きだと思う』って親友に言ったら、『私はあなたをそういう目で見ることはできないし、もし自分が男の子だったとしてもあなたは嫌だ』って言われた。『どうして?』って聞いたら、『あなたはムダ毛の処理をしないから』って……」

ローティーンというのはなんという残酷な生き物なのだろうと思った。

同時に、12歳ぐらいでも「ムダ毛の処理」が恋愛にそれほど影響を及ぼすものなのかと驚いた。いや、しかし逆に、ちょうど体毛が増え始めるぐらいの年齢だから、その処理を始める年齢でもあり、もしかすると「ムダ毛の処理」は大人になった証しというか、クールなことなのかもしれない。「ムダ毛の処理もしない、子どもっぽいあなたは嫌」みたいな意味での拒絶だったかもしれないのだ。

それにしても、これは勇気を出して告白した者にとってはショッキングな発言だ。傷ついた少女は、「もう世の中なんて、数学なんて」と荒れるのではないかと心配していたが、そんなことはなく、代わりにきっちり眉毛まで細く整えて補習教室にやってくるようになった。

こんなことを思い出したのは、メディアでやたら「毛」について語っている記事を目にするからだ。ジョン・ガリアーノが手がけるメゾン マルジェラのパリコレでのショーで、「マーキン」と呼ばれる陰毛ウィッグが使われていたという。隠すべき(あるいは処理すべき)と思われている体毛をファッション・ステイトメントにするのは、ある意味では女性解放の象徴とも言える。剃ったり、抜いたり、染めたりして「無毛」になる努力をした時代は終わり、自然に生えるものは「生のシンボル」として祝福し、そのままにしておく、「環境フレンドリー」ならぬ「肉体フレンドリー」な時代がいよいよ本当に来るのかもしれない。

しかし、こうしてマルジェラのショーについての記事を読んでいる間にも、記事の脇には母の日プレゼント用の人気商品リストの広告が現れ、ムダ毛処理用の電動シェーバーだの脱毛クリームだのといった商品をおすすめしてくる。英国のお母さんたちは、本当に脱毛グッズを母の日にもらいたいのだろうか、と思いながら、英国の脱毛事情を調べていると、現代の英国の人々は史上かつてないほど体毛を処理しているらしい。2022年の英国のシェーバーや脱毛製品の小売業界の規模は、約5億7400万ポンド(約1084億円)だったそうで、1990年代以降、人々の脱毛の動きが加速しているという。これには、レーザー技術が一般化した背景もあるようだ。

体毛というものは不思議なものだと思う。出現する場所によってこれほど差別的な扱いを受けるものも珍しいからだ。頭に生えたり、目の周囲に生えたりすると喜ばれ、育毛すら促されるというのに、生える場所を間違うと忌み嫌われて剃ったり抜いたりされる。体毛の役割は、体の温度調節をし、外部の刺激から体を守るためというのは学校で習う知識だが、ムダ毛と呼ばれるものはおもに洋服で隠れる場所に生えているので、もはや体毛としての仕事をしてもらわなくてもよくなったものと言える。だから処理されてあったほうが清潔で好ましいと見なされるようになったのかもしれないが、昔はそうでもなかったらしい。

マルジェラのショーで使われていた「マーキン」は、実は中世から存在したそうで、シラミが発生するのを防ぐため、衛生上の理由で陰毛を剃っていた当時の女性たちに使用されていたという。つまり、豊かな陰毛は健康的で好ましいと見なされていたのだ。美の基準は時代背景によって一変するものなのだとしみじみ思う。

これまでもフェミニストたちからは、体毛の処理をしない運動が幾度も立ち上がってきた。女性誌も定期的にそうした話題を取り上げてきたし、近年はノンバイナリーの観点からも体毛処理の問題が議論されている。だが、英国の脱毛市場の規模を見てもわかるように、一般的な体毛に対する意識はますます保守的になっている。ガリアーノの「マーキン」がいかにメディアに取り上げられようとも、「これからは体毛がヒップ」と考えて脱毛をやめる人は増えそうもない。

だが、ちょっと立ち止まって考える機会にはなる。これは体毛処理に限った話ではないからだ。「そうしなければならない」という常識に縛られ、それ以外の可能性が考えられなくなっている事柄が私たちにはけっこうある。女性には特に「そうしなければならない」項目が多い。好ましいと思われるため、清潔できちんとしていると思われるため、隙のない素敵な人だという印象を与えるため、「そうしなければならない」ことがハードルのようにずらりと並んでいるのだ。

そういえば、日本の政治学者の友人が、昔、ヨーロッパで社会運動に参加したとき、現地で出会ったアナキストの女性が脇の下の毛を処理していなかったことに衝撃を受け、「もう、ぼうぼうだったんだよ。自由だなあと思った」と言っていたことがある。

「おりる」という言葉はネガティブに響くかもしれない。だが、「そうしなければならない」項目をクリアするゲームからおりたとき、見たこともない自由の大地が足もとに広がっていることがある。セルフケアとは、「そうしなければならない」リストに沿って、周囲からとやかく言われないよう身だしなみをケアする作業とは、まったく別のことかもしれないのだ。

自由の大地への出発点は、地べたの私たちが、「マーキンとか、ヤバいよねー」と面白がりながら、「私たち、もっと自由でいいんじゃない?」と気づくこと。そして、そのためにまず何ができるか考えること。それは、「あんまりお互いを不自由にすることは言わないようにしよう」という、ものすごく当たり前のことかもしれない。自分が信じることや、自分が知っている世界の常識で、他の人々を縛ることはできないからだ。シスターフッドは支え合うことでもあるけど、互いを自由にすることでもあるのだ。

ブレイディみかこプロフィール画像
ライター・コラムニストブレイディみかこ

ライター・コラムニスト。1965年福岡県生まれ、英国在住。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)など著書多数。谷川俊太郎との共著『その世とこの世』(岩波書店)が話題。

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