ブレイディみかこのSISTER "FOOT" EMPATHY
"他者の靴を履く足"※を鍛えることこそ、自分の人生を自由に歩む原動力となる! 真面目な日本女性に贈る、新感覚シスター「フット」談
※ ブレイディさんの息子が、他者の感情や経験などを理解する能力である"エンパシー"のことを、英国の定型表現から「自分で誰かの靴を履いてみること」と表現。著作内のこのエピソードが多くの反響を呼び、社会現象となった。

映画『ブリジット・ジョーンズの日記』シリーズが一世を風靡したのは、20年以上も前の話だ。2016年には3作目が公開されたが、今年、9年ぶりの4作目が英国で公開されて爆発的ヒットとなっている。英国のミドルエイジ世代にとっては、ブリットポップの時代を共に駆け抜けたブリジットの帰還だが、なぜかZ世代がシリーズを発見し、ファンになっているという。
シリーズの原作者、ヘレン・フィールディングによれば、最近、彼女の本のサイン会に来た参加者の半分はZ世代だったそうだ。「18歳や20歳の子がそれ(『ブリジット・ジョーンズ』シリーズ)について私に話してくれ、こういうことで笑えるのに元気づけられると言ってくれるのはすごくうれしい」と英紙に語っている。
シリーズ1作目が公開されたのは2001年だったが、原作小説は1996年に発表されて大ベストセラーになったので、ブリジット・ジョーンズは90年代を代表するアイコンと呼ばれる。再結成されるオアシスのコンサートのチケットが発売されたとき、リアル世代だけでなくZ世代が飛びついたように、ブリジット・ジョーンズも新たなファン層を獲得している。
その理由について、ミュージック・ジャーナリストで作家のミランダ・ソーヤーは、現代よりも気楽だったように見える時代への羨望の感覚があるのではないかと分析している。
「90年代はみんな外出して、いつも酔っぱらっていた。それがエキサイティングなのではないか。今の若い人たちはそういうことがなかなかできないから」と言うのだ。
ライブやクラブに行って飲んで騒いで楽しむのは、もはや多くの若者たちにとってできないことになってしまった。経済の収縮やコロナ禍の影響で、閉店したライブハウスやクラブも少なくない。たとえ近くにそういう場所があったとしても、貧困化する若い世代は行けない時代になったのだ。たぶん、現代の若者たちには、90年代の若者たちはもっと自由だったように見えるに違いない。
Z世代のフリージャーナリスト、ハンナ・ブラッドフィールドは、「私たちがあの時代に郷愁を感じるのは、もっとシンプルだったように見えるから」と語っている。彼女の母親はインターレイル(ヨーロッパの国々で鉄道を利用できるパス)を使って旅をした夏の話をしてくれたそうだ。「母親の両親は、たまに届くハガキと電話ボックスからの電話で彼女が生きていることを知らされた」。こういう旅のスタイルは、現代では遠い過去の話だ。
「インターネットとソーシャル・メディアがすべての中心にある。それが素晴らしい場合もあるけど、今はかなり制御不能になっている。だから私たちは、たとえ自分たちはそこにはいなかったとしても、それらがなかった時代に郷愁を感じているんだと思う。すべてがもっと楽しかったように見える」という彼女の発言を読んでいると、これは昨年、英国で流行した言葉「brain rot」につながるものがあるように思える。
直訳すると「脳腐れ」というセンセーショナルな響きになるこの言葉は、昨年、オックスフォード大学出版局の「今年の言葉」に選ばれた。ソーシャル・メディアやオンライン・コンテンツの過剰消費によって引き起こされる精神的・知的な劣化状態を指す言葉で、若い世代が流行させた。「ネットばっかりやってると、脳が腐るぞ」なんてことはいかにも高齢者が言いそうな言葉だが、Z世代やその下のα世代が率先して使い出したところに、この流行語の面白さがあると思う。
その時代には生きていなかった世代が過去にノスタルジアを感じるという感覚は面白い。思えば、若い世代は生まれたときからスマホやSNSが存在した。いつもネットでつながっていて、互いが今どこにいて何をしているかを把握できる環境で育ってきた。この窮屈な檻の外に出てみたい、という欲求があるのは当然だろう。他方で中高年はスマホやSNSの便利さを体感している(なかった時代を知っているので)。それに、テクノロジーにネガティブだと「古い」とか「オワコン」とか言われるので、逆にカッティング・エッジな技術にはイケイケになりがちだ。だから、スマホ・SNSネイティブの若者たちこそが、それがない時代のほうが人間は幸せだったのではないかと思索し始めているのだ。
この風潮は、「デジタル・デトックス」の流行などの形を取り、数年前からあった。ソーシャル・メディアは、(直訳すると「社交媒体」になるわりには)あまり社交的でない対立や炎上、そしてマウンティング疲れや、精神的圧迫を生んでしまったからだ。
考えてみれば、「ブリジット・ジョーンズ」は、Z世代に毛嫌いされてもよかったはずだ。実際、シリーズはフェミニストたちに批判されてきた。結局は素敵な男性をゲットするプロットだし、今ならセクハラでしかない男性の行動もセクシーで魅力的であるかのように描かれていた。シリーズ1作目を監督したリチャード・カーティスも、体重に関するジョークを後悔していると語ったことがある。
それなのに、英国のポリティカル・コレクトネスに敏感な世代が、ブリジットに飛びついたのはなぜだろう。そのヒントは、原作者のフィールディングの言葉にあるように思える。
「ブリジット(シリーズ)は、自分はどうあるべきかと感じていることと、自分が実際にどうであるかということのギャップに関する作品でした」
「ルッキズムは許せない」とキリッと公言している自分と、インスタグラムで少しでも肌をきれいに見せようとパックしている現実の自分。そのギャップを日々引きずって生きているZ世代だからこそ、ブリジットに惹かれるのではないか。ブリジットは自分の格好悪さやダメさをさらけ出す。でも、同時に「正しく素敵な女性はこうあるべき」という鋳型に向かって、「だから何?」と肩をすくめているようなところがあるからだ。
SNSとともに育った世代は、自分にフィルターアプリを施す処世術を知っている。だからこそ、無修正のたくましい足で街を歩くブリジットにやられ、等身大の自分でつながるシスターフッドへの渇望を感じているのではないだろうか。

ライター・コラムニスト。英国在住。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)など著書多数。新刊に『地べたから考える——世界はそこだけじゃないから』(筑摩書房)。