「消える建築」を求めて――隈 研吾の挑戦<中編>

現在建造中の新国立競技場を手がけ、世界の注目を集める建築家、隈研吾。彼は建築の可能性を問い直す一方で、資源が減少する今「建築はどうあるべきか」を模索しつづけている

> 「消える建築」を求めて――隈 研吾の挑戦<前編>


 建築家の自己主張を抑えて「建築を消す」こと、周囲の環境に溶け込む建築のあり方を目指す「負ける建築」といった建築観を提唱しつづけてきた隈 研吾。東京オリンピックが開催された1964年、10歳の頃に国立代々木競技場を目にしたことが建築に魅せられたきっかけだったと語る彼は、いま、運命に導かれるように、2020年に開催される東京オリンピックのための新国立競技場を手がけている。建築家を志して以来50年にわたり、「建築家はいかなる場所でも目立つべきではない」というポリシーを貫く隈のキャリアを振り返る貴重なロングインタビューの中編。

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 隈がコロンビア大学に1年間の客員研究員として留学した1985年は、建築においても日本の経済においても転換期であった。ポストモダン建築が全盛期を迎え、米国や日本の経済は歴史的な成長期に突入した。当時、自動車や家電などの日本製品が米国市場にあふれ、米国民は自国の競争力の低下に強い危機感を覚えるようになっていた。1985年に旧西ドイツ、フランス、英国、米国、日本の5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)で締結されたプラザ合意は、各国の協調介入によってドル高を是正し、日本の輸出を制限することが狙いであった。合意直後から急激な円高が進行し、日本銀行が公定歩合を引き下げると、国内市場は過熱状態に陥った。1985年から1990年にかけて株式市場のバブルは巨大化した。富を築いたのは銀行家やサラリーマンだけではない。バブルの波は建築業界にも押し寄せ、日本じゅうで建設工事が急増した。どんな建築家にも、望めば望むだけ仕事がやってくるように思われた。

気さくで飾りのない隈の人柄は、  「建築は謙虚であれ」という彼の建築観に通じるものがある
気さくで飾りのない隈の人柄は、 「建築は謙虚であれ」という彼の建築観に通じるものがある

 隈はコロンビア大学に留学していた1年のあいだ、当時世界を席巻していたポストモダン建築にどっぷりつかっていた。フィリップ・ジョンソン、ピーター・アイゼンマン、マイケル・グレイヴス、フランク・ゲーリーといった時代をリードする建築家たちのオフィスを次々と訪ねて回り、話を聞き、彼らの仕事ぶりを見せてもらった。のちに、このときのインタビューを一冊の本にまとめたが、これはポストモダンへの隈の決別宣言でもあった。このインタビュー集は『グッドバイ・ポストモダン─11人のアメリカ建築家』というかなり挑発的なタイトルで、1989年に日本で出版された。

 隈は、アメリカのポストモダニズムはバブル経済のもとで花開いた、西欧社会に限られた現象だと感じていた。そして1980年代のアメリカのバブルは、1987年のブラックマンデーで終焉を迎えた。しかしながら、1990年に自らの名を冠した建築設計事務所を設立した隈が、初の大規模プロジェクトとして発表した「M2」は、まさに彼自身が否定したポストモダニズムの典型と呼べるような建物だった。ここがいかにも隈らしいところだ。マツダのショールームとして依頼された「M2」は、そのスケールといい、イメージといい、自動車のショールームという範疇をはるかに超えていた。その挑発的で奇抜なデザインには、間違いなく、バブル景気に踊る世間に対する皮肉が込められていた。

なかでも際立って特徴的なのは、建物の中央を貫く異様に巨大な円柱だ。てっぺんにはイオニア式円柱の特徴的な渦巻き飾りを戴き、建物の両サイドにあしらわれたいくつもの中世風のアーチがこれを支える。がっちりしたブロックの積み重ねに見えるよう、コンクリートパネルが用いられた。それまでのポストモダン建築にも、常に古典様式への回帰は見られた。たいていは痛烈な、あるいは計算された陽気な皮肉といった形で表現されている。だが、「M2」における隈の荒々しい表現は、グロテスクで過剰なものだった。その後の隈の作品を知る者からすれば、謙虚な建築にこだわる建築家がなぜこんな奇抜な建築物でそのキャリアをスタートさせたのか、理解に苦しまざるをえない。

 記念碑的で刺激的な要素をあれこれ盛り込んだ建築に、外部からさまざまな圧力が重なり、思わぬ結果に終わったというのがどうやら真相のようだ。そんな「M2」の完成が近づいたある日、隈のもとに、建物の構造の詳細に関する電話がかかってきた。左手で受話器を持ち、利き手である右手を脇のガラスのテーブルに置いてバランスを取ろうとしたとき、ガラスが粉々に割れてしまった。右手首の神経と血管が切れ、骨がむき出しになった。このケガのために右手が不自由になり、隈は細かいスケッチを描くことができなくなった。ボタンがかけられないため、今ではジャケットにTシャツが彼の定番だ。そして、死にかけるような経験とはそういうものだろう――隈も当初は心がくじけた。

しかしやがて、彼の言葉を借りれば、その経験から「解放」されることができた。その翌年に日本のバブル経済が崩壊したときも、同じように奇妙な解放感を味わったという。日本経済の壊滅的な低成長が長期化し不況が繰り返された、いわゆる「失われた10年」のあいだ、東京での仕事がぱったり途絶えた。隈もこの時期、自身の建築について熟考せざるをえなくなった。やがてその中から、彼はそのキャリアを決定づけるような実践と思考にたどりついた。隈研吾が目指す唯一の建築スタイルとは?

SOURCE:「Against Architecture」By T JAPAN New York Times Style Magazine  

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