レイラ・スリマニ×山崎まどか 今日的ダイアローグ/心理サスペンスが浮き彫りにする女性と差別問題の現在地

『ヌヌ 完璧なベビーシッター』(集英社文庫)で2016年ゴンクール賞を受賞した作家、レイラ・スリマニ。この長編小説は、雇い主から信頼され、仕事を完璧にやりこなすと評判だったヌヌ(乳母)が、なぜ罪を犯したのかということが明かされていく心理サスペンスだ。

ミステリ的展開の中で、女性が働くことの難しさや人種差別など現代社会が今抱えている問題にも切り込んでいることに、文筆家の山崎まどかが着目。来日した作家に、ヌヌという矛盾に満ちた存在や作品の核心について、話を聞いた。

働く女性にとってヌヌのような存在は必要不可欠

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── 山崎さんは本書が海外で出版されたときから、翻訳を待たれていたと聞きました。

 

山崎まどか(以下Y) そうなんです。ヨーロッパやアメリカで話題になっているときに、是非読みたいと思っていたので翻訳されてとても嬉しいです。タイトルにもなっている「ヌヌ」というのは、雇い主の家で赤ん坊の世話を定期的にする女性のこと。日本ではそういった人が家族のように家にいるという状況は馴染みのないものなので、ヨーロッパではどういう立場の人なのかを、もう一度レイラさんの言葉で教えてください。

 

レイラ・スリマニ(以下L) まず、ヌヌはベビーシッターと思われがちですが、ヌヌは乳母であり、ベビーシッターは短い時間の中で赤ん坊の面倒をみる人。だから正確には少し違います。フランスでヌヌは、特にパリのような大きな都市ではかなり普及しています。なぜなら、保育園が狭くて受け入れる人数が限られているのと、女性たちの労働時間が長くて、保育園を利用するのが難しい。そして祖父母に預けることはあまりしません。だから働く女性にとってヌヌは非常に重要な存在で、ヌヌがいないと働けず、自立もできなければ自由も得られないし、社会生活も営めない。にもかかわらず、ヌヌは社会的価値が付与されず、低賃金で雇われています。そして、ニューヨークやロンドンでもそうだと思いますが、大都市のヌヌは大半が移民の女性たちです。フランスではアフリカ出身、例えばマグレブ地方とかトーゴの人が多いですね。

 

 なぜそのような職業の女性を小説で取り上げようと思ったのでしょうか。

 

 私が生まれたモロッコでは、フランス以上にヌヌが普及していて、私自身もヌヌに育てられました。住み込みのヌヌと接して、家族の中での立ち位置や親とヌヌとの特殊な関係に、子ども心に微妙なものを感じていたのを憶えています。そして自分が母親になり、今度は母親としてヌヌと接すると、また違う側面が見えるようになって、とても面白い関係であることに気づきました。

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 どんな部分が面白かったのですか? 

 とてもプライベートな領域に感情的に入り込むんですが、プロフェッショナルな関係でもある。両義的です。そこが小説の題材として面白いのでは、と考えたわけです。

 

 ヌヌというのは、これまでのフィクション作品ではあまり描かれてこなかった気がしています。

 

 古典では乳母の存在はそれほど珍しくありませんね。ギリシャ古典やフランスの悲劇、『ロミオとジュリエット』にも乳母は出てきます。それからジュネの「女中たち」やフローベールの「純な心」にも。ただそれは、中心人物としてではなく、周辺の人物として登場するのが主でした。私がこの小説でやってみたかったのは、ヌヌがどういう精神状態かという心理描写や、社会での役割を描き出すことです。

 

 なるほど。小説に書かれているように、ヌヌたちは社会でインビジブルな、見えない人とされているのでしょうか。

 

 そうなんです。理由はいくつもあります。まず、女性だからです。女性というのは女性であるというだけで社会的には見えにくい存在です。次に移民であり、そして貧しい人だからです。また、ケアや介護、赤ん坊の世話をするような職業は、多くの人があまり価値を感じていない。赤ん坊の面倒をみるなんて誰にでもできる、当たり前だし自然のことだ、という風に思われてしまっている。社会的、職業的に重要な価値が付与されていなくて、現実世界では見えない人々という扱いになってしまうのです。

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 アフリカからの移民の女性がヌヌとして働くことが多いなかで、今作品には、あえてヒロインをルイーズという白人の貧しい女性を選びました。どうしてでしょう。

 

 アイロニカルな側面があると思います。雇用主であるポールとミリアムの夫婦の方が移民で、白人のヌヌであるルイーズが雇用されている側。そうすることによって、移民全員が何かの犠牲者で、支配されているわけではないことを示せました。移民でも成功して雇用主になる人もいれば、白人でも雇用される側になる人もいるということです。また小説的にも白人をヌヌにすることで、ルイーズの孤独をさらに浮き上がらせることができました。例えば公園で移民のヌヌのグループがいたときに、彼女だけが白人なのでそのグループには入れず孤立する、という場面が出てきます。しかも白人の仕事ではないとされる仕事をしているから、ある意味屈辱を感じている。私はこのルイーズという人物は、少し人種差別的なのではないかと思っています。あと、もしアフリカ系のヌヌを主人公にしたら、心理描写よりもそちらの問題が小説の大部分を占めてしまったかもしれませんね。

 

 確かにそうですね。ルイーズのようにコミュニティに属していない女性が、どのように社会的に堕ちていってしまうのかという描写。彼女の孤独というものがとても興味深かったし、本当に面白い部分でした。やはりヌヌを白人とすることでいろいろなことを描けたというのは、世界的な情勢とも合っています。つまり、白人で、かつ仕事を奪われている、あるいはコミュニティに属せなくてどこか人種差別的な考えを持っている、現代では女性に限らずそういう人たちが増えている印象があります。ルイーズというのはそういう人たちの一人といえるのではないかと思いました。

 

 その通りです。おそらく西洋社会の人々で、特に男性にその傾向が強いと思うんですが、自分が過去に属していた階級から落ちてしまったと感じている人や、権力が失われ、社会から離脱してしまった人を、政党が悪用して極右のような保守派の台頭を許しています。ルイーズの夫はたぶんそういう男性ではないか思います。

女性が社会進出すれば、家のことは誰がするのか?

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── 『ヌヌ』の背景には人種や性、階級、職業などの差別、保守派の台頭や移民政策など、現在の欧米や日本でも無視できない今日的な社会問題も描かれています。ルイーズだけではなく、ポールとミリアムの夫婦が直面する問題についてはいかがでしょうか。

 

 白人のヌヌであるルイーズと、新世代カップルであるポールとミリアムの対比がとても面白いですね。彼らは言ってみればリベラルなんですが、やっぱり払拭しがたい差別意識みたいなものがある。そこが興味深いと思いました。フランスでは、そういう新世代とヌヌとの関係も変化してきているのかを、レイラさんにお聞きしたいです。

 

 このカップルは、ボボといって、フランスではブルジョワボヘミアンといわれている人々。ヒッピー的な精神の持ち主で、中流階級で、パリの中心にある昔の大衆的な地域に住んでいて、オープンマインドで、環境問題に対して意識が高く、左派で、社会的にコミットしている。でもそれはあくまで理論や理想であって、実際は日常生活で貧しい人々や移民の人と接することはないわけです。すると、社会体験の違うヌヌを自分の家に受け入れたときに、理論や理想を実践するのが簡単ではないことに気づきます。やはり少し上から目線だったり、ちょっと馬鹿にしたり、ということがつい出てくる。そして彼らはブルジョワ家庭と違い、使用人がいることに慣れていなくて、その状態に違和感を覚えます。最初は彼女をどう扱っていいかわからない、それが違和感になるんですが、少しずつ慣れて喜びを感じ始める。しかし堂々とそうだとは言えない。この社会的偽善、みたいなものも表現したかったことです。

 

 このカップルが本質的に持っている罪悪感は、読んでいてすごく伝わってきました。逆にその罪悪感によって、彼らが踏み外していく過程も面白かったです。なぜ新世代カップルの雇用主と白人の貧しいヌヌの関係についてお聞きしたかというと、構成から、ルース・レンデルが書いた『ロウフィールド館の惨劇』と対比されることが多かったんじゃないかと思って。ディスレクシアの家政婦とブルジョワ家庭の悲劇を描いた小説です。

 

 クロード・シャブロル監督が『沈黙の女 ロウフィールド館の惨劇』として映画化した作品ですよね。確かにその小説とはよく比較されました。その小説に出てくる家族は、大きな屋敷に住むお金持ちのブルジョワで、ヌヌや使用人を使うことに慣れています。でもポールとミリアムはヌヌに対してどう振る舞えばいいか、その方法を知りません。小さなマンションに住む中流階級のカップルから、使用人を雇うことがどんな体験なのかを描きたかったんです。

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 前半にミリアムが女性が働くことの強いプレッシャーを感じる場面があります。現代だからこそ、働く女性がヌヌのような支えをより必要としている立場にあると読み取れます。そこにはレイラさんの体験も織り込まれているんですか?

 

 もちろん体験もありますが、観察によるものでもありますね。フランスで私の世代は「女性でも何でもできる」と言われて育った最初の世代です。結婚や出産、キャリアを積むかどうかも自由に選べましたし、誰にも頼らずに好きなことをして社会的生活を楽しむことができる、と言われて育ちました。とはいえ、私は勉強して学業実績を重ね、仕事も育児もし、社会生活すべてを手にしたときに、それを全部100パーセントでやるのは無理だと悟りました。やろうとしても、常にどこかに落ち度があるのではないかという気持ちにさせられるんです。これは男性より女性の方が感じやすい罪悪感で、外からも植えつけられます。例えば子どもとの時間をそれ程持たない女性は、男性よりも罪悪感を植えつけられますし、女性自身もそれを感じてしまう。なぜなのか、その部分も追求したいと思いました。

 

 この小説は女性と仕事についての物語でもありますね。

 

 そうです。ヌヌとミリアム、二人とも働く女性ですが、女性の労働力が増えると同時に、家事や子どもの面倒をみる人たちが必要になり、そういう人も増えます。女性の仕事はマトリョーシカみたいで、開けたら多くの職業の女性が出てきて、ヌヌは人がほとんど目にすることのない最後の小さな人形。そういう存在なんですね。女性の仕事はこれまであまり研究されてこなかったのですが、経済的にも社会学的にも今後大きな問題になってくると思います。女性がこれまで以上に社会進出すれば、誰が家事や家のことをするのか、という問いも出てきますし。

 

 日本ではレイラさんのお名前は、フランスの新聞『ル・モンド』への反論記事で知った人も多いと思います。アメリカのエンタテインメント界のセクシャルハラスメント問題について、2018年の頭に『ル・モンド』が「(伝統的に恋愛を大事にするフランス人らしいカルチャーとして)男性は女性にしつこく言い寄る権利がある」という意見に100人の女性が賛同したという記事を掲載しました。それに対して、レイラさんが『リベラシオン』紙に反論を寄せたという経緯です。

 

 セクハラ問題は世界共通ですね。私がいたほぼすべての国でセクハラは当たり前のことでした。例えばエジプトやインドでは慢性的な現象です。なぜそうなるかというと、公共の空間で女性の立場が認められていないからです。けれどモロッコでは最近、女性が笛のようなものを持ち歩く運動が起きています。セクハラを受けたり、嫌な口説きにあったりしたときに、笛を吹いて「やめて」と意思表示をする。そんな動きが出てきました。

 

 セクハラを無くすには、どういう方法があると考えていますか?

 

L 解決方法は教育しかないんじゃないでしょうか。まず一つ目は若い女の子や少女たちに、それを受け入れない、と教えること。二つ目は、男の子や少年たちに、女性というのはそのような態度を取っていい相手じゃない、自分のものではないと教えていくことが重要だと思います。

 

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『ヌヌ 完璧なベビーシッター』レイラ・スリマ二(著)松本百合子(訳)/集英社文庫

■プロフィール

レイラ・スリマニ

 1981年モロッコ生まれ。モロッコの学校を卒業後パリに移住。いくつかの学校で学んだ後ジャーナリストに。『Dans le jardin de l’ogre』で作家デビュー。2016年『ヌヌ 完璧なベビーシッター』でゴンクール賞を受賞。2017年フランコフォニー担当大統領個人代表に任命された。

 山崎まどか

 文筆家。女子文化や映画、文学、海外カルチャーについて執筆を行う。著書に『女子とニューヨーク』(メディア総合研究所)、『優雅な読書が最高の復讐である』(DU BOOKS)など多数。翻訳書にレナ・ダナム『ありがちな女じゃない』(河出書房新社)などがある。

Photography:Yuka Uesawa Text:Akane Watanuki