天井までのガラス窓の向こうには、濃い緑と瀬戸内海の青が広がる。都心で予約のとれない人気店を営んでいたシェフが、岡山県・牛窓に移住して得たものとは
イタリアンの料理人・林冬青(とうせい)。日本のイタリア料理に詳しい人には、よくその名を知られた人物だ。1991年からイタリア各地で修業し、ロンバルディア州のリストランテでシェフとしても活躍。オーナーシェフとして1997年、東京・広尾に「アッカ」をオープンした。妥協を許さず、本場の味を追求する彼の店にはグルマンたちが通い詰めた。
そんな人気店を突然閉め、多くの常連客を驚かせたのは2013年のことだった。だが翌年、「アッカ」は岡山・牛窓(うしまど)で再び開店。東京で生まれ育った林は今、この地で水を得た魚のようにイキイキと料理をしている。広尾時代を知る人たちは、「林さんが明るくなった」と口を揃える。
天井まである大きなガラス窓。オリーブの樹々が風に揺れ、瀬戸内海がキラキラ光る。この風景を眺めながら料理ができるのは幸せだと林は言う。
広尾の店を閉めたのは、マダムとして店を二人三脚でやってきた母親の病気がきっかけだった。「どんなことがあっても自分が面倒をみようと決めていたので。母には開店時の経済的援助から、日々のレストラン業務までずっと世話になってきました。自分には子どももいない。母の恩にお返しをする番かなと」
母親の病気が進行し、店を切り盛りしながらの介護で心身ともに追い詰められた。店を畳もうとも考えたが、「ここまできたら、いっそやりたいことをやろう」と移住を考え始めた。もともと店を始めた当初は、都心ではなく、神奈川の葉山など、海に近い場所に店を出したかった。ならば、魚のおいしい南イタリアに似た土地を探そう――。
決めると、行動は早かった。地図を見て、南イタリアに似た土地を探した。三重、香川、広島、愛媛から九州へも足を延ばした。母親の介護と店を両立できる場所を求め、たどり着いたのが岡山・牛窓だった。
「いま店のあるオリーブ園の丘から瀬戸内海を眺めた瞬間、あまりの美しさに『ここに住もう』と決めました。もうひとつの決め手は『人』です。牛窓は古くから港があり、開放的な土地柄。外からの人間にもやさしい。岡山は閉鎖的と言われますが、ここは別でした」
林は、県外からの移住を促進する岡山県の「お試し住宅」制度を利用して半年ほど岡山市内に住みながら、物件探しを始めた。まず地元の商工会議所を訪れ、あの「牛窓オリーブ園」を経営する日本オリーブの服部恭一郎社長を紹介してもらった。
「一介の料理人、しかもよそ者が急に土地や物件を借りたいと申し出ても、そう簡単にOKは出ません。物事には順序があること、情熱だけでは進まないことをイタリアで学んでいましたから」
何度か足を運ぶうちに、林の東京での実績が認められ、「牛窓オリーブ園」が管理する国際交流ヴィラの一画を借りられることに。これは林にとって大きな一歩だった。地元で親しまれているオリーブ園の中にあることで、土地の人たちが店の存在を比較的すんなり認めてくれたのだ。「オープンしてすぐに地元の方々が来てくださった。ありがたかったです」(林の朝は、牛窓の「高祖鮮魚店」から始まる。)
SOURCE:「Migrating Flavors」By T JAPAN New York Times Style Magazine BY MIKA KITAMURA, PHOTOGRAPHS BY TETSUYA MIURA NOVEMBER 01, 2018
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