龍のようにうねりながら丘を這う回廊と、その建物を彩るように咲く桜の花。今後250年をかけて、9万9,000本の桜が福島県いわき市の山を埋め尽くす。この遠大な計画を主導するひとりの男と、彼を取り巻く友人たちの活動をノンフィクション作家の川内有緒が追った
新元号発表を控えて世の中が浮き足立った2019年4月1日の朝、その美術館は春の日差しを受けて穏やかに佇んでいた。風が木々の葉を揺らし、中庭には鳥の鳴き声が響く。山の頂きまで続く回廊を上りきると、高台には朽ちかけた木造の船があり、手作りのブランコが風に吹かれていた。
いつもどおりの朝――。
ここは、福島県いわき市の「いわき回廊美術館」。入場は無料、オープンは日の出から日没まで、入り口に受付もないユニークな野外美術館だ。東日本大震災の翌々年となる2013年に開館し、個人の資金や寄付で運営されている。
私が初めてここの存在を知ったのは、2015年のことだった。なんだか面白そうだと、深く考えずに電話で取材を申し入れると、美術館を運営する志賀忠重は、「いんやあ、取材はダメだ、あまり人が来ても迷惑なんだ」と答えた。そのいわき訛なまりの口調はとても正直で、断られているのに嫌な感じがしなかった。それにしても、人気が出たら困るっていったいどんな美術館なんだろう。とっさに、じゃあ、あまり人が来ないように書くんでと食い下がると、「だったら、いいよ」と電話の向こうで笑い声が弾けた。
こうして訪ねた美術館は、正体不明の磁力をもつ不思議な場所だった。あれから私は1、2カ月に一度のペースでここを訪れるようになり、なぜ志賀が大勢の人に来てほしくないと言うのかも、よくわかるようになった。
「ああ、まだここにもあった」
4月1日の朝、志賀は美術館に来るなり周囲のゴミをせっせと拾い集めていた。前日、ここでは毎年恒例の「春祭」が開催され、ミュージシャンやフラダンスチームなどがパフォーマンスを披露し、延べ2000人が集まった。普段は、人に来てもらいたくないと言う志賀だが、春祭だけは例外らしい。今年はあいにく雨の予報だったが、志賀が晴れ男ぶりを発揮したのか、日中にはポツリとも降らず、代わりに傘の忘れ物が多かった。
ひとつ残らずゴミを集めると、志賀はベンチに座って朝のお茶を飲み、ふうとひと息ついた。今日からまたいつもの日常が待っている。それは、草刈りや伐採など、膨大な山仕事をこなす日々。志賀は今この周囲の山々で、9万9,000本の桜を植樹するというとんでもないスケールのプロジェクトを進めているところなのだ。
先ほど“正体不明の磁力”と書いたが、何度もここに通ううちに、その磁力の正体――要するに魅力――が、少しずつわかってきた。
まずは、そのお金の出どころだ。前述のとおり、美術館はあくまでも個人の資金や寄付で運営されている。「公的な補助とか、そういうものには興味ないよね。お金をもらったおかげで、ああだら、こうだら口出されたくない」というのがそのスタンス。おもに資金を出しているのは志賀とその友人で、ふたりの自由奔放な性格や生きざまが、そのまま美術館の雰囲気に表れている。
二点目は、美術館の建設方法である。回廊をつくり上げたのは、約400人のボランティアで、資材は山から伐きり出してきた木材やベニヤ板など。特別なものは使われておらず、美術館全体が手仕事のぬくもりにあふれている。
三点目は、飾られているアート作品で、ひとつは地元の子どもたちが描いた絵、もうひとつは中国人・現代美術家の蔡 國強(ツァイ グオチャン)の作品である。蔡は、グッゲンハイム美術館など、名だたる美術館から引く手あまたのアーティストで、その作品の評価は非常に高い。そんな蔡の作品が、この美術館には三つあり、冒頭の丘の上の朽ちかけた船もそのひとつだ。世界的アーティストと地元の子どもたちの作品が同列に並んでいるのも、ここならでは。(回廊美術館への資金提供を行なった友人とは?)
SOURCE:「A Beautiful Revenge」By T JAPAN New York Times Style Magazine:JAPAN BY ARIO KAWAUCHI, PHOTOGRAPHS BY YASUYUKI TAKAGI MAY 31, 2019
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