オスカー像を手にし、レッドカーペットに凛と佇むレネー・ゼルウィガー。その表情には、たった今、2度のアカデミー賞、主演女優賞と助演女優賞をいずれも獲得した史上7人目の女性という偉業を成し遂げたばかり、とは思えぬ平穏が漂っていた。
アルマーニ・プリヴェのミニマルなワンショルダーのドレスにヘアはシンプルに束ね、メイクアップも極めてナチュラルに仕上げた姿には、煌く装飾は一切見当たらない。それでもなぜか、彼女から目が離せない。それはまるで、『オズの魔法使』のまじないにかけられたかのよう。
6年間のブランクを経てショービズ界にカムバックした彼女に舞い込んだ役は、ハリウッドの歴史に残る名優、ジュディ・ガーランドだった。ジュディは『オズの魔法使』(1939)の主人公ドロシー役で一躍スターダムを駆け上り、アカデミー賞子役賞を手に。その類まれなる歌唱力とカリスマ性で、ミュージカル女優としての地位を確立する。
しかし、『オズの魔法使』当時から多忙な撮影をこなしていたジュディ。映画会社MGMの首脳部は、気力や睡眠コントロール、スレンダーなスタイルを維持させるため、まだ幼い頃からジュディに複数の薬物を投与。それにより、不眠症や依存症に苦しみ、ジュディの私生活は荒れる一方だった。
そんな中、『スタア誕生』(1954)の大ヒットで見事アカデミー賞にノミネートされるも、惜しくも受賞は逃した。それにより再び精神的にも不安定になり、度重なる遅刻や出勤拒否といったトラブルで評価も重なり、映画のオファーはめっきり減ってしまう。
後年は歌手活動をメインにし、その他の追随を許さない圧倒的な歌唱力とステージパフォーマンスで人々を魅了するも、1969年、47歳にしてその生涯に幕を閉じる。
ジュディに魅了され、インスピレーションを受けてきた名優やアーティストは数知れず。レネーもそのひとりで、とくに『オズの魔法使』のドロシーは「私にとって永遠のアイドルで、先生」と語った。しかし、そんなレネーでも知らなかったのが、ジュディの人生のラストステージ。
「ジュディの名誉のためにも、真実を世に伝えたかった」
ハリウッドのスポットライトから去ったジュディの“真の姿”を、亡くなる半年前に行われたロンドン公演を通して描いた『ジュディ 虹の彼方に』。レネーはその脚本を読んだ際、知られざる事実の連続に「衝撃を受けた」のと同時に「彼女の名誉のためにも、これを世に伝えなければ」と感じたという。
「私にとってのジュディは、マジカルでカラフルな存在だった。そんな彼女が幼いころからハラスメントを受け、恐ろしいほどの過剰労働を強いられていたこと、薬漬けにされて支配されていたことを全く知らなかったわ。そして、そういった背景が知られずに悪評だけが残っていることを、とても不平等だと感じた」
「だからこそ、彼女にまつわる世間の誤解を正したい、というルパート(・グールド監督)の想いに共鳴したわ。それは単に、“彼女がかわいそうな人だった”ということを知らしめたいわけじゃない。精神的にも肉体的にも、想像を絶するほど辛い状況下で、最高峰のパフォーマンスを行えたこと。それを維持し続けたことの偉大さを世界が知る必要がある、と強く思ったの」
「エンタメ界の過酷な労働環境が女性に与える影響を、身をもって知っている」
役を受けた当時のレネーは、ジュディが亡くなったのと同じ47歳。そのことが、ジュディの凄まじさをより痛感することにつながったよう。
「エンターテインメント業界の過酷な労働環境、そしてそれが女性にどのような影響を与えるかを、私は身をもって知っている。しかもジュディの場合は、ライブパフォーマンスでしょう。この年齢であのレベルのパフォーマンスを続けられていたこと自体、信じがたいことよ!」
「しかも彼女は日常的にドラッグを使っていて、慢性的な睡眠不足だった。健康的な肉体であっても困難なことを、ボロボロの肉体でこなしていたのよ。それを知って、よりジュディを尊敬するようになったわ」
「監督から『グランドピアノを押せ』と言われたときは、びっくりしたわ!」
映画出演のオファーも途絶え、幼い娘と息子を連れた巡業ステージで生計を立てていたジュディ。借金を抱え住む家もなく、果てには宿泊費の滞納からホテルを追い出されてしまう。やむなく元夫に子どもたちを託したとき、ロンドンからショーの依頼が舞い込む。
子どもたちに「すぐに迎えに来る」ことを約束し、単身ロンドンへ。しかしプレッシャーから、普段にも増してアルコールとドラッグを摂取するように。足元もおぼつかぬままステージへと押し出されたジュディが1曲目に選んだのは『By Myself』。絞り出すような歌声が徐々に力強さを増し、観客を感動に包み込むシーンは、劇中のパフォーマンスの中でも“最高”と呼び声が高い。
「ルパートはこの曲に描かれているジュディの孤独に、当時のジュディの心境を重ねて、パフォーマンスで一体化させたいと考えたの。彼はライブパフォーマンスの世界で生きてきた人だから、パフォーマーの心情と曲がマッチした時に引き起こす感動の大きさを心得ていたのね。歌う前に、ジュディの心境を理解して体現するところから始まったから……もっとも準備に時間をかけた曲かもしれない!」
「レッスンもユニークでね。この曲のリハーサル初日に、ルパートから“グランドピアノを押せ”と言われて驚いた。聞けば、グランドピアノはジュディが直面していた障害や困難の代わり。それらをフィジカルに押し避けようとすることで、彼女のもがき、あがきが私の筋肉に埋め込まれ、記憶にも浸透していったわ。『By Myself』という曲に込められた想いを全身で表現できたからこそ、多くの人の心に響いたんだと思う」
「ジュディの衣装は、まるで鎧のようだった」
全米公開後、レネー演ずるジュディと実物の写真を並べ、「ジュディが憑依していた」と表現する声が続出し、改めて「カメレオン女優」ぶりを見せつけたレネー。そんな彼女が「袖を通すだけでジュディになれた」と絶賛するのが、リアルに再現した衣装の数々。
大スターが愛用していた、色とりどりのガウンやスーツ。画面を通して見るだけでもうっとりとさせられるが、レネーはそれらを「まるで鎧のようだった」と表現する。
「ジュディの衣装はどれも、構造から触り心地まで、すべてがパーフェクト。完璧すぎるほどの美しさは、どこか攻撃的だったわ。実際、着た瞬間に、まるで鎧をまとっているような感覚を覚えたの。きっと衣装は、彼女が不安から身を守るための武器だったのだと思う。パフォーマンスという戦いに挑むためのね」
「ライブパフォーマンスの撮影は、何度も断ろうと試みた」
そんな衣装に身を包み、ジュディのパフォーマンスを見事なまでに再現したレネー。ミュージカル映画は通常、パフォーマンスシーンは無音で撮影し、後から音声をのせるものだが、レネーは本作で生歌によるパフォーマンスを披露。ミュージカル俳優でも困難な偉業をやってのけたのだ。
これまでも『シカゴ』〔2002)などで歌を披露してきたレネーだが、歌いながらパフォーマンスを行うのは本作が初めて。監督から「生歌で撮影したい」と申し出を受けた際には、「どうにか避けようとしたわ。何度もね!」と明かした。
「正直、撮影は苦労の連続だった。でもね、撮影時のことを思い浮かべると、不思議とジョイフルな気持ちになるの。監督、プロデューサー、ダンスの先生、歌の先生、ピアノ奏者……みんなと共有した時間や経験、そしてみんなの努力が一体となって完成した素晴らしいシーンを考えたとき、“大変だった”という言葉は出てこない。言葉を改めるなら……、ただ“時間がかかった”っていうのが正しいわね!(笑)」
少し間をおいて、「それも今となれば、素敵な時間だったわ」と、寂しさを覗かせたレネー。インタビューを行ったのは、2度目のアカデミー賞受賞を果たした約3週間後。その笑顔には、ジュディの達成できなかった夢を叶えたという誇り、そして安堵が含まれているように見えた。