幅広い世代に支持され、大ヒットしているマンガ『鬼滅の刃』には、アウトロー的な存在の「異端」に向けられる、慈愛に満ちた目線があった。作品に登場する魅力的なキャラクターが物語の中で歩んだ軌跡を追いながら、新しい時代を強く生き抜くヒントを、民俗学者・畑中章宏と文筆家・はらだ有彩の視点から模索する。
「鬼」とは何か?
(右)竈門炭治郎が惨殺された家族の仇を討つために、鬼狩りとして奔走する様子を描いた『鬼滅の刃』。印象的なのは、炭治郎が「憎い敵」であるはずの鬼の心に寄り添い、慈悲を見せる場面。ただ単に"鬼"だからといって冷酷に切り捨てることはしない
(左)炭治郎の最愛の妹、禰豆子。竈門一家を襲ったあの惨事から生還するも、鬼化してしまう。人を食らう鬼としての「業」に抗いながらも、人を守る心を持つ、鬼であり、人でもある存在だ
畑中 古くは『魏志倭人伝』に「卑弥呼は鬼道を使う」とあります。「鬼道」という言葉は諸説あるのですが、人間離れした超越的な力ということでしょう。「鬼」というと、たとえば閻魔様に使役されるような存在を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。『鬼滅の刃』でも目がいっぱいあったり、筋骨隆々だったりとか、仏教的な地獄絵の影響が強いように思います。
はらだ 『鬼滅の刃』に登場する鬼は、無惨を含めて、全員ある意味で不可抗力によって鬼になっていますよね。それがとても衝撃的でした。生まれつきの鬼として自然発生したものでなく、人間によって発生させられて、社会から追い出されてしまった存在。鬼の「悪さ」を厳密に追究していくと、実はそんなに悪くないという。
畑中 実は鬼は両義的な存在でもあるんです。折口信夫は鬼を春の訪れを告げる存在であるとしました。どちらかといえば縁起のよいイメージなんですね。豆を投げられて逃げていく節分の鬼は、どこか滑稽でかわいそうな存在でもあります。典型的な中世の鬼のイメージとしては平安期の「酒呑童子」が挙げられます。大江山にすみ、都の姫をさらって食べていた鬼です。最後は源頼光に退治されてしまうのですが、それの経緯がちょっとかわいそうなんですよね。そもそも大江山に来たのも、比叡山にいたら最澄が来て追い出されて、高野山に移ったら空海が来て追い出されて、大江山にたどり着いていじけていたら、頼光がお酒を飲みながら話を聞いてくれたからと、心を許したところでだまし討ちにあうんです。かわいそうな存在としての鬼を描くのは、古典中の古典からしてそうなんですね。『鬼滅の刃』はその正統な後継者であると言えますね。
はらだ 炭治郎だけはそうした鬼側の事情に耳を傾けています。半分鬼化した禰豆子がいることで、炭治郎は鬼の存在の余地を考えざるを得ないから。
畑中 鬼になるか、鬼殺隊に入るかって、紙一重なんですよね。いずれにも不幸な来歴があり、超人的な能力がある。このマンガの読ませどころのひとつに、死にゆくキャラクターの走馬灯がありますが、あれを読んでしまうと、みなどっちに転んでもおかしくないなと思ってしまいます。自分だったら、なれるとしたら鬼になりたいかな。鬼殺隊はしょせん人間だから、どこまで行っても普通の体。ルックス的には鬼のほうがかっこいい(笑)。
主人公の炭治郎をはじめ、鬼殺の剣士の長年の宿敵、鬼舞辻無惨。自身の「血」を与えることで、多くの鬼を生み出した彼も、元をたどれば「不可抗力」で鬼となった
はらだ 猗窩座もそう言ってましたね。
畑中 炭治郎が象徴的ですが、最後はダサさ、愚直さが勝つんですよ。こういうフィクションの見方っていうのはいろいろあって、正義と悪みたいな単純な二元論にはできません。鬼のほうに肩入れをして、鬼、頑張れよみたいな感じで読む人も少なからずいるんじゃないかなと思います。私もすごく鬼、応援してましたけどね、
家族と組織
鬼狩りの精鋭部隊、鬼殺隊の中でも屈指の強さを誇る「柱」。鬼と対抗する彼らもまた同時に"異端"の存在だった。そんな彼らを受け止めたのが、鬼殺隊という組織だった
はらだ 私は「組織」が気になります。人間がうまく機能するための装置としての組織。うまくいっている組織の代表が鬼殺隊、うまくいっていない組織が鬼、という対照的な構図が『鬼滅の刃』にはあると思います。巧みに組織化することが、人間が鬼に勝つ唯一の術なんですね。この組織は家族に代わるものと言ってもいいかもしれません。
畑中 『鬼滅の刃 』は家族の話かとも思ったのですが、炭治郎は血の流れと関係ないところにいるじゃないですか。本来は自分に縁がある話ではないんですよね。一方で鬼の一族には確かなヒエラルキーがあって、当時の時代背景的に、天皇を頂点とした近代的な国家観みたいなものを反映してるように思えます。元来、家族の中にある家父長制的なものを利用してるのが無惨を頂点とした鬼側の社会。それは近代の天皇制のメタファーなのかもしれません。やっぱり大正という、もうすぐ家族の紐帯みたいなものがなくなってしまう、ぎりぎりの時代に設定することによって、現在とのつながりが感じられるという気がしますね。
はらだ 蜘蛛鬼一家のエピソードは象徴的ですね。あれは役割ありきで作った家父長制的疑似家族が破綻する話なんです。一方、鬼殺隊は、普通の生活を奪われて、異端となった人の受け皿として描かれています。鬼は生まれついての異端ではありませんが、鬼殺隊の、たとえば甘露寺蜜璃は生まれついての異端です。昔話の「飯食わぬ嫁」みたいですよね。桜餅を食べすぎて髪の色が変わってしまったり、筋肉が常人の8倍あったりする。でもそれは自分ではどうすることもできません。それがために社会からはじき出されて、鬼よりも鬼っぽい存在とされました。そうした存在を異端扱いしない組織がまさに鬼殺隊なんです。組織化して受け入れる。鬼殺隊は「個」の戦いにしないための新しい単位だと感じますね。
高い戦闘能力を持つ柱の一人である甘露寺蜜璃。彼女もまた特殊な髪色や身体能力を隠さず、ありのままの自分を鬼殺隊に受け入れられた者の一人
畑中 鬼殺隊は技術を習得・継承してさえいたら、その役割を担うことができますよね。一方で、鬼は無理やり「スカウト」して、血を飲ませて家族にしてしまう。面白いのが、鬼殺隊の剣士は、それぞれ超人的な技術を持っていますが、そのトップである産屋敷耀哉は特に能力を持っていないんです。技術がないからこそ俯瞰して人を見られるんですよね。鬼はより強い能力を持っていて、無惨はその力によって頂点に立っています。産屋敷とは真逆。組織論として興味深い状況です。
はらだ 一方で、必ずしも完璧ではなかった鬼殺隊という組織の進化も描かれています。かつて、「とにかく鬼は絶対に殺すべき」「鬼とわかり合うことはない」っていう厳格なルールが隊にはありました。しかし、禰豆子が隊に属することで鬼殺隊の掲げる、その鬼「殺」が成立しなくなります。そういう組織ならではの不自由さを、より自由にしたのが炭治郎と、半分鬼化した禰豆子なのではないでしょうか。
畑中 鬼と人間の対立という図式の中で、禰豆子は中間的ですね。鬼は鬼だけで、鬼殺隊は人間でのみ成立していたところに投げ込まれたのが禰豆子という存在でした。
はらだ 彼女の存在は鬼殺隊の矛盾だったんです。だけど、まさに禰豆子が現れたことで、状況が打開されました。人間の集団から鬼の要素を持つ者を排除しないことが、鬼殺隊の美徳となっていきましたよね。だから、タイトルが『鬼「滅」の刃』なんじゃないかな。一方、鬼は人間的要素を持つ者は殺してしまいます。組織の在り方として対照的です。そして、それはどちらが生き残るか、という点に影響してきます。
組織による“セーフティネット”がある物語
畑中 禰豆子以外にも『鬼滅の刃』には中間の存在がたくさんいますよね。面白い存在だなと思うのが、鬼でも人間でもない、お面を身につけて能力を発揮している人たちです。たとえば炭治郎の師である鱗滝。人間だけど、天狗のお面をかぶっていますよね。そして伊之助は猪の頭。鋼鐵塚の集中力も鬼的。刀鍛冶は「ひおとこ(火男)」とも呼ばれ、それが「ひょっとこ」の語源となるんですね。私は鋼鐵塚が超イチ押しなのですが、キャラクター人気投票で鋼鐵塚が1位ということはありませんかね(笑)。彼の存在はこの世界において技術が重要視されていることの象徴だと思います。刀鍛冶が登場することで物語が展開するでしょう。刀こそが鬼殺隊の力の源なんです。
はらだ 社会からはみ出てしまった人たちを、そのまま置いておけるのが鬼殺隊、そして人間の強さの源で、鬼側はそれをしなかった。刀鍛冶や「隠」(鬼殺隊の事後処理部隊)の人たちがいることで、最前線で鬼と戦う筋力がなくても、「鬼滅」という行為に関わることができると証明していますよね。いい組織だなと思います。
炭治郎の持つ日輪刀を打った刀鍛冶が鋼鐵塚蛍だ。自分自身が打った刀への情が深く、また同時に自負も強い。鋼鐵塚が住む、刀鍛冶の里のほかの職人とともに、「鬼を滅する」行為に参加しているといえる
畑中 鬼側には鬼しかいないので、この対称性は興味深いところですよね。仮面の人たちは、人間なんだけど仮面=ペルソナをかぶることで非常に強い能力を持つ、ボーダーを超越するキャラクターです。伊之助はプロレスのマスクマンですよね。マスクを取るとすごく怒るじゃないですか。猪に育てられた子どもといったモチーフは、民俗学的にも大変に魅力のあるキャラクターなんです。鬼のほうは鬼だけで自律してやってるけど、人間のほうはその枠組みを曖昧にとらえて、ボーダーを越境するようなキャラクターをうまく使って鬼に対抗しようとしているな、と私は読みました。
はらだ 炭治郎が「善良な鬼と悪い鬼の区別もつかないなら柱なんてやめてしまえ!!」って言うじゃないですか。ここで登場する「善良な鬼」という概念。その存在に気づいてしまった以上、鬼を全員殺せばハッピー、とはならないんですよね。禰豆子が鬼になってしまったことで、鬼の事情を考えざるを得なくなった炭治郎ならではの思考です。鬼の堕姫と妓夫太郎に対しても、禰豆子がいるからこそ、その関係性や過去を、炭治郎は思いやることができます。鬼に情けをかける、というか、かけざるを得ないんですよね。事故のように、彼女が鬼になってしまったから。自分のことになって人は初めて理解できるんです。
畑中 炭治郎自身が鬼になる可能性すらあったわけですよね。自分もその危険性があったから、鬼、たとえば猗窩座と向き合ったときも家庭の事情や生い立ちの不幸を、分け隔てなく慮ることができます。炭治郎は“貴種流離”の人ではないんですよね。炭焼きの一家の子。刀鍛冶とか炭焼きは、歴史上では周縁、マージナルな存在だったとされています。逆に無惨はもともとが貴族だから、こういうところも炭治郎と対照的。無惨はきっと、どこまで行っても「なんで自分がこんなことになってしまったのか」という感覚なんでしょうね。
はらだ 作中で貴種流離譚の主人公になりうる存在は鬼狩りの剣士・縁壱さんでしょう。この物語は縁壱さんの冒険譚にしてもよかったのに、そうしないところがいいですよね。そして、その縁壱さんの高い技術は誰も継承しない一代かぎりのもの。そこから、「血によらない克服」をこの物語は描こうとしているんじゃないかなと考えました。自分(読み手)が血によって排除されず、努力次第では鬼殺の剣士のようになれるかもと、思えるんです。
畑中 わりと古典的なスポ根のノリを感じさせますよね。
はらだ 確かにそうですね。そして、この『鬼滅の刃』は一回失敗したら、もうダメという話ではないですよね。一度、鬼になったら人生そこで終了、ってことでもない。自分が排除される側になった場合を想像させて、その打開策を見いだせるような希望がある描き方がされています。システムとしてしっかりと構築された、「組織」としてのセーフティネットがあり、それが形を変えて接ぎ木されていく。しかも、その組織には当然女性のキャラクターもしっかりと組み込まれている。そういうことが自分にも起こる、そういう人たちがいたかもしれないと想像する力(エンパシー)が今必要だと思います。
『鬼滅の刃』
家族を鬼に惨殺された竈門炭治郎の成長の軌跡を描く。唯一生き残ったが、鬼化してしまった妹、禰豆子を人間に戻すため、そして家族の仇を討つため鬼狩りの道へと進む。(吾峠呼世晴/集英社)
畑中章宏さん
1962年生まれ、大阪府出身。民俗学者、作家。著書に『柳田国男と今和次郎』『災害と妖怪』『「日本残酷物語」を読む』『天災と日本人』『五輪と万博』など。民俗学の視点から現代の流行風俗・社会現象を読み解いた『死者の民主主義』(トランスビュー)が話題。
はらだ有彩さん
イラストレーター、文筆家。日本の昔話や神話に登場する女の子の新しい魅力を見いだすエッセイ『日本のヤバい女の子』シリーズ(柏書房)が発売中。7月にファッションのタブーを打ち壊すエッセイ『百女百様 ~街で見かけた女性たち』(内外出版社)を刊行。
SPUR12月号巻頭企画「無限列車で、どこまでも」の撮影舞台となったのは埼玉県さいたま市にある鉄道博物館。明治時代から現代まで、日本の鉄道の歴史を代表する実物車両の展示などを楽しめる。現在、新収蔵資料展『鉄道写真家・南 正時作品展~蒸気機関車のある風景~』も好評開催中。
2019年に放送されたテレビアニメ『鬼滅の刃』のその後を描く。舞台となるのは、短期間のうちに40人以上もの人が行方不明になっているという無限列車。主人公の炭治郎、禰豆子、善逸、伊之助は、鬼殺隊最強の剣士〈柱〉の一人、煉獄杏寿郎と合流し、列車の中で鬼に立ち向かい、熾烈な戦いを繰り広げる!(公開中)
©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable 配給:東宝・アニプレックス
SOURCE:SPUR 2020年12月号「『鬼滅の刃』とエンパシー」
interview & text: Makoto Oda