今、私たちに必要なのは、心がとろけるような“ときめき”だ。緊迫した瞬間を経験したからこそ、鮮やかに感じ取れる“ハートメルティン”な気持ちを、新進気鋭の作家、宇佐見りんが描き出す。パーソナルな“胸キュン”をシェアして、温かなしあわせを世界に向けて循環させたい。
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「心のありか」宇佐見りん
心ってほんとうに胸の奥にあるんだろうか。
心は移動する、とわたしは考える。もちろん胸の奥にしまわれていることもあれば、握り込んだ拳のなかにあることもある。腹に下りて石のように固くなることも、背筋を走り抜けることもある。ときに剥き出しになって、足蹴にされたり、無理に引きずって水風船のように破けてしまったり、通りすがりの人や言葉に拾い上げられたりする。
緊急事態宣言が発令される少し前、とある写真展に行った。その日、東京にはみぞれが降った。傘をたたみ、赤いコートに冷気をまとったまま立ち入った暗い場内には、青い影の重なる清潔な壁と、緊密な音楽に包まれた異様な空間ができあがっていた。黙りこくって写真を見つめる人の傍らを通り過ぎると、冬の日に特有の寒々しい匂いがする。
点在するパリ・オペラ座のバレエダンサーの写真は、いやに静かだった。写真だから音を発さないのは当然のことだが、それ以上に鋭利な、張り詰めた静けさがある。
わたしもクラシック・バレエを習っていたことがあるが、どれだけ高く跳ぼうが、着地の際にドスンと音を立てるのは御法度だった。膝や腿をやわらかく使い、衝撃を吸収し、着地の音を限りなく無音に近づける。
「手のひらと指先は卵を持つように、丁寧に」
「お腹は引き上げる、肩は下げる」
「呼吸をとめない」
「すみずみにまで、神経を遣って」
「笑顔で」
足音を立てるのも憚られる空気のなか、写真ひとつひとつに対峙するうち、バレエの先生の言葉が蘇る。たとえば、透明な光が注ぎ込む部屋で片足を上げ、静止している彼女。あるいは、幕の前でうずくまるようにポーズをとり、首を捻って上方を見つめる彼。切り取られた一瞬に、どれほどの力が注ぎ込まれているのだろう。あの無駄のない美しい肉体をつくり上げるために、どれほどの厳しさに耐えたことだろう。首から肩へ、腕へ、指先へ伝うエネルギーの流れ、緊張の波が、一枚一枚、苦しくなるほど鮮やかに焼き付いている。究極の静けさは、意識を全身に張り巡らせ、流し続けることによってのみ立ちのぼる。
場内を一周し、出口付近にさしかかると、ひときわ暗い部屋があった。奥に灰色の映像が流れ、ちらちらと光が漏れており、観終えた人から抜けていく。
それは、ふたりのダンサーの足許だけが切り取られた映像だった。音楽はあったが、言葉はない。何か明確な物語が示されているわけでもない。床を擦ってゆっくりと跳ね上げられた脚が、相手の腿に絡みつき、もたれ、さらりと離れる。跳ぶ。支えられながら着地する。徐々に倒れる。また爪先立ちになる。ひたすら、それだけが繰り返される。
彼らの脚を見つめるとき、わたしの心は、もはや自分の胸の奥にはない。美しくアーチを描く彼らの足先と、執拗に擦られる床との間にある。ゆっくりと折れ曲がる太腿とふくらはぎの間にある。わたしの心は彼らに自在に蹴り上げられ、押し潰され、軋む。彼らは観る者の心を支配する。心を奪われるとは、つまりそういうことだ。
あるものの動きや居住まいに、心を支配される瞬間が好きだ。それはバレエに限らない。たとえば、能を観ているとき。面をかけた能楽師が舞台左奥に現れる。そこから橋掛りと呼ばれる廊下のような空間を、摺り足で本舞台までやってくる。腰を落とす。かすかにうつむく。振り返り、白い足袋に包まれた足を上げる。型を保ったまま、次の太鼓が鳴るまで、静止する。沈黙に包まれるうち、舞台上に次第に非日常の世界がひらけてくる。人間が極限まで人間の体を使い、人間を超えたなにがしかに変貌する。自分の心が、能舞台に立ちこめる神秘的な空気に圧迫される。演者の体の芯が僅かにでもぶれれば、幻想的な空間は途端に崩れ去ってしまうだろう。
写真展をあとにして、いまだみぞれの降る外へ出た。悪天候ではあるが、空は白く明るい。透明な傘を差し、傘越しに世界を目にしたとき、わたしは奪われていた呼吸を取り戻した。心がほどけていくように思った。傘を打っては流れていく雫の重さが、街路樹の鮮やかな緑や午後の外灯の暖色が、さびしく、たのしかった。手のひらや首から、高揚がじわじわと滲み出てくる。バレエダンサーや、彼らの一瞬一瞬を切り取った写真家への感動と、その日彼らに出会えた幸せがあった。それから、これは変な言い方かもしれないが、わたしという人間が肉体を持つこと、そのものへの喜びもあった。
バレエの先生の言葉によると、「いい踊り手は、観客を踊った気にさせる」のだそうだ。よほど鍛錬を積まないと舞台の上ではうまく動けないものだが、うまく踊れない観客であっても、ダンサーを見るうちに、彼らの動きを己の肉体に反芻して、その流れを感じられることがある。先ほど出会った彼らにはその力があった。
横殴りに吹きつけるみぞれに路面が白く輝いていた。わたしは白い息を吐く。幸福にひたる。バスタブに入浴剤を放り込むときのように、自分の体のすみずみまで心がゆき渡る。心が溶ける瞬間は、心をきゅっとわしづかみにされたあとにやってくるのだ。
たとえば、伸びをするには、肩や首に力を込める必要がある。力んでから、脱力すると、凝った肩や猫背がしなやかになる気がする。心も同じではないだろうか。ぎゅっと収縮しきったあとで、とろける。解き放たれる。わたしにとってのハートメルティンとは、そういう瞬間のことだ。
RIN USAMI
小説家、エッセイスト。1999年、静岡県生まれ。
2019年に刊行された、デビュー作『かか』で第33回三島由紀夫賞を史上最年少受賞。待望の第二作『推し、燃ゆ』(ともに河出書房新社)が刊行。
SOURCE:SPUR 2021年1月号「伝播するハートメルティン」
model: Hiroya Shimizu photography: Sayaka Maruyama styling: Kayo Yoshida hair: Mr.Tomik make-up: Nao Yoshida