「理想こそが前に進む力になる」サーロー節子の“強い”言葉

2017年、ノーベル平和賞を受賞した国際NGO・ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)。その活動の象徴的な存在として、広島での被爆体験を世界中で証言してきたカナダ在住のサーロー節子さん。壁にぶちあたっても光に向かって突き進んできたその力強い人生の歩みを、来日を機に聞いた。
※こちらは2019年3月号の取材時の内容です

「頑張ってください」ではなく、一緒にアクションを起こしてください

「Oh my goodness! こんなファッションマガジンに私の怖い話が載るの? 大丈夫かしら?」。SPURを見て、ちゃめっ気ある笑顔を見せるサーローさん。穏やかな風貌からは想像もつかないような揺るぎない信念で、88年の人生の大半を核廃絶運動に捧げてきた。

始まりは1945年8月6日、広島市に原子爆弾が投下されたあの日。13歳の女学生だったサーローさんは、建物の下敷きになるも一命をとりとめたが、9人の親族、そして351名の学友を失った。

「広島は一瞬にして廃墟となり、黒く焼け焦げた死体で町は埋め尽くされました。無差別の大虐殺です。ちょうど病院に行く途中で被爆した姉は、皮膚がはがれ落ち、肉も溶けてしまいました。叔父と叔母はやけどこそありませんでしたが、1週間くらいすると紫色の斑点が体中に出てきて、やがて亡くなりました。介抱した両親によると、最期は内臓が腐って液状化し、流れ出すようだったそうです。紫の斑点は、死の刻印でした。私は毎朝、体中を確認して、斑点がないと、『今日は生き延びられる』と思ったものです」

中でも記憶に鮮明に残っているのが、4歳の甥・英治くんの姿だ。

「彼の小さな体は、何者か判別もできないほど溶けた肉の塊になり、かすれた声で、『お水、ぶぶちょうだい……』と言いながら息を引き取りました。その記憶が深く心に焼きつき、私の中では、反核兵器運動の象徴となりました」

’45 年には約14万人が命を落とし、そして今日までに約30万人が原爆の犠牲に。被爆者たちの苦しみは現在も続いている。

「すぐに『何万人が死んだ』という数字の話になってしまうけれど、命を数字に置き換えるのは人間としての尊厳を無視していると思います。それぞれが貴重な命であり一人ひとりに名前があったのです」

核兵器は国家の安全保障の問題ではなく、人間の問題なのです

戦後も混乱を極めていた広島。そんな中、「教会の牧師さんが戦争で孤児になった子どもたちの支援に奔走していました。大人が人生の危機にどう立ち向かうかを見て、私も人を助ける人間になりたいと思いました」。大学卒業後、ソーシャルワークを学ぶためにアメリカへ留学。その後、カナダ人男性と結婚してカナダへ移住後、ソーシャルワーカーとして働きながら、被爆体験を語り続けてきた。しかし北米で広島・長崎の話をすることは、当初タブーに近いものがあったそう。

「アメリカ人は、『戦争を終わらせるには、原爆投下が有効だった』という神話を信じ、正当化していました。原爆の苦しみを語ると、『パールハーバーを忘れるな!』『日本へ帰れ!』と憎しみや批判を浴びることもありました。最初の頃はショックを受け、原爆について話すのは、もうやめようと思ったこともありました」

こうした反発は、戦後70年以上たった今も少なくないという。

「カナダにもさまざまな国の人がいるので、『私のおじいさんは日本人に虐殺された』『日本はほかの国の人を大勢殺したのだから原爆を落とされて当然だ』と反発を受けることは今でもあります。このようなときは、まずは相手の声に耳を傾けます。私もひとりの日本人として、日本軍が犯した罪に対して申し訳ないと感じていますから、話を聞いたら、まずはお詫びして、『あなたの気持ちはとてもよくわかる』と共感をもって相手のストーリーを理解する。そのうえで、核にはまた違った次元の恐ろしさがあることをお話しします。一方的に被爆体験を語るのでなく、まずは痛みを共有する。そういう態度でないと、国の違う人、考え方の違う人に私たちのメッセージは伝えられません」

憎しみを恐れず、受け止め、なお勇敢に前進する。その胆力を支えてきたのは、「生き残った者の使命感」。

「みんなでよく話していたのは、亡くなった人たちを犬死にさせてはならないということでした。彼らの死を無駄にしてはいけないと。私には甥や学友のことを語り継ぐ道徳的な責任があるのです」

こうした70年にわたる活動の結果、2017年7月7日、国連で「核兵器禁止条約」が122の国と地域の賛成多数により採択。12月には、条約の採択に貢献したとして、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)がノーベル平和賞を受賞。その活動に大きな役割を果たしたサーローさんは授賞式に登壇した。

「核兵器禁止条約の採択は、素晴らしい出来事でした。夢に思い描いていたことが現実となって、私は感動で言葉を失い、涙しました。ICANがずっと訴えてきたのは、核兵器は、国家の安全保障の問題ではなく、人間の問題だということです。以前は、反核運動というと、核抑止論など、専門家が戦術的な面から核を語ることがほとんどでしたが、活動が実って、10年ほど前から人道的な観点から語られるようになりました。核兵器は、必要悪ではなく、絶対悪であるという私たちの思いが実ったのは何よりの喜びでした。とはいえ条約を確実に発効させることが次の課題。これからが始まりです。

一方、日本が核兵器禁止条約の参加を拒否したことは、とても残念でしたし、裏切られたという思いがしました。アメリカの核の傘の下にいるとはいえ、日本は唯一の被爆国として道義的責任があります。人類の大いなる苦しみを知っているのですから警告を発する責任がある。そして世界から信頼と尊敬を得られる国になってほしいと思います」

核の問題を考えるには、想像力が非常に大事

’07年に発足したICAN。100カ国以上のNGOが参加しているが、その中心は、30代以下の若者たちだ。

「何十年も反核運動をやってきましたが、これほど献身的な若者を見たことがありません。考え方も独創的で、各国の政府と連携していく能力にもたけている。情報をツイッターで発信したり、私にはとてもまねできませんね(笑)」

今回の来日でもたくさんの若者と触れ合ったサーローさん。戦争の記憶が薄れゆく中でも、平和への思いは、若い世代に受け継がれていると感じたという。

「みんな乾き切ったスポンジのように私の話を吸収してくれました。最近の若者はダメだなんて言うけれど、とんでもない。若者は感性豊かですから、こちらが真剣になれば必ず反応を示してくれます。むしろ問題は大人たちです。大人たちがちゃんと行動しているのか。今回お会いした方々もみなさん、『サーローさんのご活躍を祈ります』と言うけれど、祈らなくていいから一緒にアクションしてくださいと私は言いました。『頑張ってください』ではなく一緒に頑張るんです」

サーローさんの言うように、思いがあってもアクションにつながらないのが今の日本の現状。それは戦争や核の問題を自分のこととして感じていないからだ。

「被爆した者しか核の恐ろしさを感じられないというのは、おかしな話です。つまり『想像力』が非常に大切だということですね。まずは原爆の被害や核兵器について学び、そして想像力を働かせれば、核の時代に生きる危うさがわかるはずです。自分たちの現在を守り、お子さんや人類の将来を守るという使命感、責任感を持ってほしいと思います」と力強く語るサーローさん。発言一つひとつは重く、心に突き刺さるが、同時にその確かな言葉からは生きる勇気と希望が湧いてくる。

では最後に。今13歳の自分に会えるとしたら何を言いたいですか?

「あのときの自分がそうであったように、理想主義者になれって言いますね。今年で88歳になり、人生をほとんど生き終えた者として振り返ってみると、やはり私は理想に燃えて、理想に向かって、まっしぐらに生きてきたと思います。理想主義者は、ただの夢見る人だとネガティブに思われがちですが、理想なくして世の中に進歩はありません。ですから『そのまま諦めずに走り続けろ』――13歳の節子には、そう言ってあげたいと思います」

サーロー節子の歩みと核を巡る動き

1932年 サーロー節子、広島に生まれる
1941年 日本が真珠湾を攻撃。太平洋戦争が開戦
1945年 米国が広島・長崎に原爆を投下
1954年 サーロー節子、米国へ留学。
米国が太平洋ビキニ環礁で水爆実験
1955年 サーロー節子、結婚しカナダへ移住
1968年 核不拡散条約成立(1970年発効)
1974年 サーロー節子、核兵器反対運動に本格的に取り組み始める
1996年 包括的核実験禁止条約成立
(2018年12月現在未発効)
2007年 ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)発足
2011年 福島第一原子力発電所事故
2013年 第1回「核兵器の人道的影響に関する国際会議」(人道会議)がノルウェーで開催(128カ国が参加)。
2017年 7月、国連で核兵器禁止条約を採択(核保有国や日本などは不参加)。
12月、ICANがノーベル平和賞を受賞

SOURCE:SPUR 2019年3月号「サーロー節子の“強い”言葉」
interview & text: Hiromi Sato photography: Yurie Nagashima

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