鍛え上げられた筋肉を有するアスリートのボディこそ、時代が求める美しさのひとつ。究極の肉体美を体現するのが、プロフリークライマーの野口啓代選手。洗練された筋肉にふさわしいミニマルなウェアを着て表現したのは、ヘルシーでしなやかな、新しいセンシュアリティ。その肉体をつくる強い精神力と日々の努力、そして飽くなき向上心は、よりよい未来を目指す私たちの指針になる。
※この記事は2021年7月発売のSPUR 9月号に掲載したものです。
勝利を導くレッドを唇にまとって
野口選手がポーズを変えるたび、鍛え上げられた筋肉がしなやかに盛り上がり、スタジオ中のスタッフから驚きの声が上がる。今回着用したアイテムの中でもいちばんのお気に入りだというミニマルなドレスが、力強いボディラインを際立たせる。大会ではいつもネイルカラーや髪に結ぶスカーフで取り入れているというラッキーカラーの赤をリップに差し、はっとするほどセンシュアルに。
鍛え上げた肉体で新時代の美をつかみ取る
「男性でも女性でも、腹筋がきれいな人は素敵ですね。筋肉がきれいなのは、そこがしっかり使えている証拠。だから機能的で美しいと思います。私も、よくかっこいい体だと褒められますが、実は筋肉のあまりついていない華奢な女性の体つきが羨ましくて。ないものねだりですね」。下の後ろ姿は、応援する誰もが憧れる背中を捉えたもの。コンテンポラリーなパンツルックが、機能的な体の官能性を際立たせる。
コンフォートな表情に宿る、知性と繊細さ
普段は、勝負の場にふさわしく強いメイクアップを好む野口選手。今回はあえてリラックスした雰囲気で、彼女の知性と冷静さ、フェミニニティを表現。世界一の保持力(ホールドをつかみ体勢をキープする力)を誇る指は柔軟で、折り重なったプリーツのように豊かな表情を見せる。この手で、あらゆる壁を越えてきた。
クライミングは自分との闘い。大切なのは繊細さと、強い精神力
ホールドと呼ばれるカラフルな突起物のついた壁を、身ひとつで登っていくクライミング。身体能力の高さが求められるだけではなく、課題(設定されたコース)をいかに攻略するかという頭脳的戦略が重視されるため、「体を使ったチェス」と言い表されることも。その世界トップレベルに、10年以上の長きにわたって君臨し続けている日本人選手がいる。それが野口啓代選手だ。19歳のときにワールドカップで初優勝して以来、今までに通算21勝・4度の年間総合優勝を果たした、まさにレジェンド。しなやかで研ぎ澄まされたボディは、うっとりするほどに美しい。深い陰影を刻む背中や肩のラインを見ていると、いったいどんなにキツい筋肉トレーニングを行なっているのだろうと思わされるが、意外にも野口選手は「いわゆる筋トレは、ほとんどしていないんです」と笑う。
「壁を登っている中で自然と筋肉がついていくので、特にどこかの部位を意識的に鍛えたりはしていないですね。どちらかというと、体の軸を意識したり、呼吸を意識したりといった、コアのトレーニングをすることが多いです。クライミングはパワフルなスポーツだという印象が強いかもしれませんが、意外と細やかな重心移動やバランス感覚が必要で、繊細さが重視されます。自分の体をハイレベルでコントロールする能力が求められるから、全身の筋肉がバランスよく引き締まる。そういう意味では女性にもオススメですよ」
現在は、週に5日は壁を登る実践トレーニングを行なっているという野口選手。世界各地を転戦するワールドカップシーズンには、大会に出場し、勝敗にかかわらずその反省を生かしてトレーニングに励み、1、2週間後にはまた別の大会へ向かう。そんなストイックな生活が、もうここ10年以上日常になっていると話す。
「大会では、それまでいかに練習してきたかがすべてです。クライミングは対人競技ではないし、チームメイトがいるわけでもありません。自分との闘いであり、目の前の課題との闘いになります。だから、自分に負けない能力がすごく大切。その能力は、練習に練習を重ねることでしか身につかないと思っています。そして最後に勝敗を分けるのは、やっぱりメンタルですね。大会前には、『ダメだったらどうしよう』とすごく不安になることも。その気持ちを隠したり、気づかないふりをしていると、絶対に本番でうまくいかないんです。だから私は、大会前には必ずメンタルコーチと話して、自分の気持ちを整理し受け入れてから試合に臨むようにしています」
野口選手にとって今まででいちばん忘れがたい大会になった、2019年の世界選手権。大会自体がハードなスケジュールだった上に、「これほどのプレッシャーを感じたことは今までになかった」というほどの重圧がかかる試合だった。心身ともに極限状態の中で、野口さんは出場選手の中で日本人1位を獲得し、代表の座に内定した。タフな状況でも実力を出しきれる強さの支えとなるのは、集中力の高さ。ここぞという場面で必ず決める、気持ちの強さは折り紙つきだ。それも、彼女が日々の練習の中で培ってきたもの。
「練習でできていないことは、本番でもできないものだと思っています。だから普段の練習でも、大会同様の集中力で登るようにしています。毎日の目標を自分で設定して、その日のうちに達成できるよう、強い意識でいつもトレーニングをしていますね」
落ち着いた口調で淡々と語る野口選手。しかしクライミングは心身両面に強い負荷のかかるスポーツだ。長期にわたってこれだけ強度の高いトレーニングを続けていれば、極度の疲労で立ち止まりたくなるときだって当然ある。
「基本的に、大会のシーズン中はずっと『オン』の状態です。気持ちの面では若干のメリハリがあってもいいけれど、体を『オフ』にはしたくない。そんな日々の中で疲れてしまい、リフレッシュが必要だと感じたら、クライミングとまったく関係のないことをするようにしています。飼っているネコと遊んだり、友人と電話で話したり。それだけでも全然、違いますね。確かにハードな生活ですが、『もう疲れちゃったな』『大会に出たくないな』と思うことはあっても、『クライミングをやりたくないな』と思ったことは一度もないんです。大会で、まだ誰も登れていない課題を自分が最初に登れたりすると、ものすごく気持ちがいい。しっかり集中していい登りができた日は、興奮が冷めず一睡もできないこともあるくらいです。クライミングは本当にいいスポーツだなと、心から思いますね」
輝かしいキャリアを築き上げながら、「今も自分について発見することがある。まだまだだなと思いますね」と笑う野口選手。不断の努力で鍛え上げられ、研ぎ澄まされた体は今、競技人生の集大成を迎えようとしている。
「限界は、自分で超えようと思って超えられるものではないと思うんです。当たり前のことを毎日積み重ねていった先で、いろいろなものがうまく重なったとき、初めて壁を越えられるんじゃないかな。今の私は、最後の限界を超えるための準備中ですね。もっともっと上に行きたいと、今もずっと思い続けているんです」
野口選手が「最後の壁」を登りきる瞬間が、今、近づいている。
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東京大会から五輪正式種目となるスポーツクライミング。「スピード」「ボルダリング」「リード(写真)」の3種目に出場し、総合成績で順位を競う。
Profile
のぐち あきよ●プロフリークライマー。1989年生まれ、茨城県出身。小学5年生のときに家族旅行で訪れたグアムでクライミングと出合い、翌年には全日本ユースで初優勝。今までにW杯年間総合優勝を4度獲得。
SOURCE:SPUR 2021年9月号「野口啓代 官能をホールドする」
photography: Hiroko Matsubara styling: Sumire Hayakawa 〈KiKi inc.〉 hair & make-up: Momiji Saito 〈eek〉 interview & text: Chiharu Itagaki cooperation: Boulcom Tokyo