第二次世界大戦終戦から77年目の今年、苛烈な地上戦を経験し、長らくアメリカに占領されていた沖縄県は返還50周年を迎えた。世界情勢が不安定な今、歴史から学び考えるべきことは何か。黒島結菜さんが、故郷と戦争にまつわる二つの物語と対峙する
DIALOGUE01
戦争の語り部と交わす「受け継ぐ」約束
自身の体験から戦争の悲惨さを伝える語り部・玉木利枝子さん。過去を共有し、次世代への願いを託すバトンを受け取った
つらい記憶を掘り起こしても伝えるべきだと思った
沖縄出身の玉木利枝子さんは、語り部として自身の戦争経験を多くの人々に伝えてきた。戦後77年、現役で活動する語り部が少なくなってきた今、貴重な存在である彼女を、同じく沖縄出身の黒島結菜さんが訪ねた。
黒島結菜(以下、黒島) 戦争の記憶を語りたがらない人も多いと聞きます。そんななか、玉木さんが語り部の活動をしていらっしゃるのには、どんな思いがあるのでしょうか。
玉木利枝子(以下、玉木) 私も終戦から50年ほどは、話題にしたこともまったくなければ、思い出したくもなかったです。本当に凄惨な記憶ですから……。ただ自分より若い、戦後生まれのいとこたちに戦場で散った身内たちについて伝えたいという思いで、手記を書くことにしたのです。それがきっかけとなり、語り部として活動をするようになりました。黒島さんは、学校で「平和学習」を受けられましたか?
黒島 はい。沖縄県の「平和学習」では戦争について学びます。ただ時間がたつとどうしても記憶は薄れてしまいますよね。大人になってから改めて資料館に足を運んだり、学ぶ機会をつくっています。実はあまり地元では戦争の話はしたことがないんです。東京で各地から集まってきた友達と世界で起きた出来事を話すこともあり、自分のルーツである沖縄で起きたことをしっかり知っておかないといけないと意識するようになりました。
戦争というものは、人から心と命を奪う
玉木 この地で戦争があったという事実は若い人も知っていますよね。でも、どれほどの状況だったかは聞いたことのない人が増えているはず。もちろん少し状況は違いますが、今、ウクライナのニュースで流れているような惨事が、この地でも起きていたのです。地形が変わるほどの砲弾を撃ち込まれる中、一般市民である私たちが地上を逃げ惑い、多くの命が失われました。
黒島 まさに想像を絶する光景だと思います。それまで玉木さんはどういう暮らしを送られていたのでしょうか。
玉木 戦争を意識したのは、10歳の頃でした。国民学校(現在の小学校にあたる)の1年生のときに真珠湾攻撃があり、太平洋戦争が始まったと知りました。当時は幼い子どもでしたから、実感はあまりなく。ただ教科書の内容が変わったのは覚えています。
黒島 教育も変わっていったのですね。
玉木 そうです。たとえば、教科書にも「ススメ、ススメ、ヘイタイ、ススメ」「チテチテタ、トタテテタテタ」なんて書いてある。要するに「兵隊進め」という内容で、戦争や軍隊を思わせるものに変更されていきました。朝礼では全校生徒が皇居の方角に向かって最敬礼し、教育勅語を暗唱させられるようになりました。作文の内容も、自分の思いではなく、兵隊さんを励ますためのお手紙を書きましょうと指定されました。そして4年生のときに、那覇の大空襲があって那覇市が焼き尽くされ、戦争を意識するように。
黒島 そのときご家族は一緒でしたか?
玉木 私の父は外科医で病院を開業していましたが、軍医として出征することになりました。疎開していく人たちもいましたが、私たち家族はバラバラになるまいと沖縄にとどまり、宜野湾村に避難したんです。ほとんどの学校が日本軍の駐屯所になっていましたから学校にも通えず、掘っ立て小屋のような場所で防空訓練をしました。毎日のように空襲があり、自分の身を守るための訓練を受けました。空襲で敵機が飛んできて、250キロ、300キロという鉄の塊の爆弾が落とされ、破裂して飛び散るのです。このときのものすごい爆風から身を守るのに、できるだけ低いところに身を伏せます。そして、鼓膜が破れないように親指を耳に差し込み、眼球が飛び出ないように目を押さえるのです。
黒島 10歳でそんな訓練をすることになるなんて……。当時の心境を覚えていらっしゃいますか。
玉木 子どもでしたから、言われるがままです。みんなと同じように教えられたとおりのことをする。これが自分の身を守る方法なのだという感じです。そうしている間に戦況は悪化しました。ガマと呼ばれた防空壕に身をひそめるのですが、そこにも軍隊がやってきて、「住民は出ていくように」と命ぜられたのです。今では反論する市民もいるかもしれませんが、当時は国が決めたこと、軍隊に命じられたことにはいっさい反対できませんでした。そう教育されてきたのですね。行くあてもないまま砲弾をかい潜って移動し、その間に何人もが亡くなりました。黒島さんもドラマの中でそのようなシーンを演じたことがおありですね。
黒島 はい。でもみなさんの心境を完全に再現する境地には到底至れないと思い、さまざまな感情が入り乱れた恐怖を私なりに表現しました。
玉木 私自身もその間の記憶はあまりありません。何かを食べた、いえ、それ以前に空腹の記憶すらないのです。目の前で起きた衝撃的な出来事の数々や、恐怖の感情以外は何も残っていません。砲撃が始まると訓練したとおりにやろうとしても実際にはパニックになります。そのときも硬直してしまい、顔を覆った手をはずすと、目の前に胸のあたりを真っ赤に血で染めた兄の姿がありました。砲弾破片にやられた腕をもう片方で支えていましたが、もう機能していないその腕は、野戦病院で体から切り離されました。血染めの包帯で体を巻かれた兄は棚のようなところに寝かされ、「水が欲しい」と言いながら、ついに息を引き取りました。あのときに水も飲ませてやれなかったことが、今でも悔やまれます……。祖父は怪我をして動けなくなった体で、家族の足手まといになるまいと自害しました。その亡骸を弔うことも許されず、そのままにして逃げなければなりませんでした。負傷したほかの家族とも、そこで散り散りになりました。
黒島 お父さまも含む、8名のご家族を地上戦で亡くされたと。手記を読んで悲しくなりました。
玉木 家族を失ってからは、たった10歳で戦場をひとり歩きする日々が始まりました。あるとき、小さな子どもが大切に持っている芋をぶん捕って食べてしまった軍人さんを見ました。今そう聞くと「なんてひどいことを」と思うでしょう。でもあの状況では誰もが正気でいられなかった。当時のことは誰も責められないと今となっては思います。人が人の気持ちを保っていられない、これが戦場なんです。
黒島 小学生のときに「もし、自分がその場にいたら」と想像しました。でも、絶対無理です。とても生き延びられる気がしません。よくご無事で……。
玉木 講話を聞いた生徒さんも、そのような感想を寄せられます。でもね、当時を思い返すと、生きたくて逃げていたわけでもないと思います。怪我をしてのたうちまわっている人や、傷口にうじが湧いている人を何人も目にしていますから。「自分はあんな目には遭いたくない」、痛みへの恐怖で「即死したい」という思いです。だから、道中で軍人のおじさんからもらった手りゅう弾を宝物のように持っていました。相手を攻撃するためのものではありません。これで自分が怪我をしたときに一発で死ねる、そう思って安堵したのです。
平和な今を生きているからこそ忘れずに何度でも伝え続ける
時折、涙で言葉をつまらせながら当時の壮絶な記憶をたどり、お話ししてくださった玉木さん。真剣な面持ちで聞く黒島さんは、自らの使命について玉木さんに聞いてみたいことがある。
黒島 今回、お話をお伺いして、改めて戦争が奪っていくものの大きさを痛感しました。同時に、風化させないために語り継ぐ重要性も感じます。人は忘れてしまうから、何度でも思い出さないといけませんね。
玉木 おっしゃるとおり、平和の中にどっぷりと浸かっていると嫌なことは忘れてしまうものです。今は沖縄も観光地として青い海、青い空、楽しいエイサーに沖縄料理が人々を楽しませています。それ自体はよいことですが、ただそこで暮らしていると今自分が平和を享受できるありがたさにも無自覚になります。また、日本は非常に災害の多い国ですね。地震や津波、豪雨など毎年のように被害を受けています。渦中ではもう人間の力はまったく及びません。でも「助けてくれ」と声を上げることはできる。遠くにいる私たちも義援金を集め、ボランティアを組んで応援に行ける。この「助けてくれ」と声を上げられるのは、その前提に平和があるからです。戦場では情報などまったくない中で砲弾を浴び続け、10歳の子どもがひとりぼっちで「苦しまないで死なせてくれ」と神に祈るような日々。助けを求めることなどできない戦場と、今ある平和の違いをわかっていただきたい。過去のことはどんどん忘れ去られ、伝える人は消えていきます。だから、できるだけこの体験を伝え、残していきたい。
黒島 それぞれに役割があると感じています。私は俳優という、多くの人に伝えやすい立場なので、思い出すきっかけをつくることができるはず。事実をどう伝えるかで受け手の気持ちも変わると思うので、よりよい方法を探っています。戦後生まれの私にはどんなことができるでしょうか。
玉木 私たちとしても、こちらの思いを真剣に聞いてくれる人がいるから、今の活動を続けられているのです。熱心に平和学習を行なっている学校もたくさんありますし、歴史から学ぼうとする人は少なくありません。あの戦場の話を聞くみなさんも、こんな悲惨な目には遭いたくないと誰もが思うことでしょう。この思いこそが、戦争を止める大きな力となるのです。黒島さんのような方には、機会があるごとに繰り返し表現していっていただきたいですね。私が話したのは私の足跡ですが、戦場という問答無用の世界の中にはそれぞれの悲惨さ、むごさがありました。一つひとつの話も聞いていただければ、どんな理由があれど、もう二度と戦争は繰り返してはいけないのだと、より深く思ってもらえるのではないでしょうか。
黒島 時代も変わって、当時の戦争と今の戦争は違う部分があるかもしれないけれど、人々の命が失われるという事実は変わらない。玉木さんから受け取った「戦争を繰り返してはいけない」というメッセージを未来へと語り継いでいくために、過去から学ぶことの大切さを言葉にし、何度も表現し続けていきます。今日はとても貴重なお時間をいただきました、玉木さん、これからもお体を大切にお過ごしくださいね。
お話を聞いたのは……
玉木利枝子さん
1934年生まれ。10歳で那覇市の大空襲に遭い、沖縄地上戦を本島南部で体験。家族を8名も失う。戦後は親戚の家で暮らし、旅行会社勤務などを経て、現在は語り部として活動する。
黒島結菜さん
1997年、沖縄県生まれ。映画『カツベン!』で第43回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。2022年度前期連続テレビ小説「ちむどんどん」(NHK)にて、ヒロイン比嘉暢子役を演じている。
平和に慣れて忘れていってしまうからこそ、
何度でも思い出して、そして伝えていきたい
ー YUINA KUROSHIMA
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DIALOGUE02
ひめゆり平和祈念資料館館長と考える、戦争を知らない世代の受け継ぎ方
教師、生徒240人が沖縄戦で戦場動員され、136名の命が失われた「ひめゆり学徒隊」。その軌跡を伝える資料館の在り方に、戦後世代がどのように向き合うべきかを学ぶ
戦後生まれの世代だからこそ、「わかりやすさ」を追求した
日本軍の看護要員として沖縄戦に動員された「ひめゆり学徒隊」。その壮絶な体験を後世に語り継ぐべく設立された「ひめゆり平和祈念資料館」が、2021年4月「戦争からさらに遠くなった世代へ」をテーマにリニューアル。指揮を執った館長にお話を伺う。
黒島結菜(以下、黒島) NHKのドラマ(戦後75年特集「戦争童画集」・2020年放送)で、前館長の島袋淑子さんの役を演じさせていただきました。私が初めて「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れたのは、小学校の「平和学習」のとき。実家ではあまり戦争の話をすることはありませんでした。家庭によっては戦争の話をしづらい雰囲気が残っているのかもしれません。でも、私は子どもながらに他人事ではない気がして。「もう一度見に行きたい」とお願いして車で送ってもらい、ひとりで拝見したこともありました。先祖が戦争を生き延びてくれたから今の自分があると思うと、知っておきたかったんです。
普天間朝佳(以下、普天間) ほど強い思いがないと、憩いの場所である家庭で、わざわざつらい体験を持ち出そうとは思わないかもしれないですね。沖縄の家庭であまり戦争体験が語り継がれていないという事実は確かにあります。黒島さんのご家族もそうだったのかもしれません。でもそんな中でご自身が知りたいと思ってくださったことはとてもうれしいです。
黒島 普天間さんも私も、ともに〝戦後生まれ世代〟。どのような思いで館長を務めていらっしゃいますか。
普天間 私はここが開館した33年前に就職し、島袋前館長をはじめ、元ひめゆり学徒から戦争体験をじかに聞いてきました。当事者が伝える言葉の重みや迫力はすさまじいものです。自分にはまねできないと思っていました。それでも彼女たちの思いを継いでいくためには、まねではなく、戦争を体験していない私たちだからこそできることをという視点で考え、取り組んでいかなくてはと考えるようになりました。それが私たちの役目だと。
黒島 私が映像作品を通じて表現したい思いと近いような気がします。資料館は昨年リニューアルされましたね。
普天間 はい、黒島さんにもお越しいただきましたね。イラストや映像を増やしたり、より〝見てわかる〟展示を意識しました。戦争に突入する前の日常的なスナップを展示し、学徒たちにも自分たちと変わらない青春時代があり、決して遠い存在ではないと気づいてもらいたかったんです。当事者ではないという点で来館者と同じ立場だからこそ、それが伝わりやすい、自分事化できるアプローチを考えました。(写真を見せながら)元の展示は、軍国的だと感じるような硬い表情の集合写真だったんですよ。
黒島 本当だ、拝見した笑顔の写真とでは、雰囲気が全然違いますね。先生にあだ名をつけていたというエピソードも展示されていて、彼女たちをぐっと身近に感じるようになりました。
普天間 あとは今回、「ひめゆりの戦後」というコーナーを追加しました。ひめゆり学徒隊にとって、「終戦」が戦争の終わりではなく、今も続いているんです。決して生き残ってよかったとは思わなかったという複雑な思いを知ってもらうことにも意義があると思っています。以前よりもわかりやすくなったという声や、「怖くなかった」という感想をお寄せいただくようになりました。
黒島 確かに、「平和学習」の時期になると落ち込んでしまう子もいました。怖いと感じるのは当たり前ですし、行きたくないと考えるのも仕方がないと思います。でも、怖いという先入観で実際に起きた事柄を知る機会なく遠ざけてしまうのは残念ですし、「怖くなかった」という感想を聞いて、なんだかほっとしました。
普天間 「人生を終わらせようと思っていたけれど、生きようと思えた」という感想をいただいたこともありました。ここで「生きたくても生きられなかった生」を感じ、生きる勇気が湧いてくることもあるのだと思います。
黒島 戦前から戦後までのストーリーを知ることができるのも大きいかもしれませんね。私たちと同じような学生生活を送っていたところから一変して、突然戦争に巻き込まれる恐怖感や、生き残った後の元学徒のみなさんの使命感を感じました。前館長の島袋さんにお会いしたとき「戦争は絶対に繰り返してはいけない」と何度もおっしゃったのが印象に残っていて……。改めて普天間さんの思いも受け止める機会をいただき、常に胸にとどめておかねばならないと思いました。
普天間 どんな戦争でも被害を受けるのは必ず市民です。昨今、ニュースで流れている外国の戦争も同様です。メディアが多様化していて、自分が見たくない情報を避けることもできるようになっているからこそ、黒島さんのような若い世代が、さまざまなツールを使って平和への思いを発信し続けてくれることがとても重要だと感じています。
黒島 私自身、実際に訪れて得られる学びの大きさを知っています。だから、足を運び、自分の目で見て感じる大切さを伝えていきたいです。
(上)ひめゆりの塔が立つ伊原第三外科壕跡前に佇む普天間さん。多くの学徒たちが命を落としたこの場所には、たくさんの花が手向けられていた
(右下)リニューアルで生徒たちの明るい表情や自然な笑顔のスナップ写真が並ぶようになった第一展示室。全館を通し、イラストや映像を用いて見やすい展示へと生まれ変わった
(左下)新たに加えられた、戦後を伝える展示室の様子
Information
ひめゆり平和祈念資料館
沖縄県糸満市伊原671の1
電話:098−997−2100
開館時間:9時〜17時25分(入館は17時まで)無休
入館料:450円(大人)
https://www.himeyuri.or.jp/JP/top.html
お話を聞いたのは……
普天間朝佳さん
ふてんま ちょうけい●1959年、沖縄県生まれ。ひめゆり同窓会が設立し、元ひめゆり学徒が中心になって運営してきた資料館に1989年から勤務。長年元学徒たちとともに働き、次世代継承に取り組む。2018年、初の戦後世代の館長に就任。
SOURCE:SPUR 2022年9月号「黒島結菜 沖縄と平和を対話する」
photography: Anna Miyoshi (TRON) styling: Ayano Nakai hair & make-up: Akemi Ezashi (mod’s hair) coordination: Shoji Ohashi (OKINAWA LOCATION) text & interview: Rio Hirai (FIUME Inc.) special thanks to: Hoshino Resorts BANTA CAFE