人物や色彩にギリシャを感じる
ランティモス監督と脚本のトニー・マクナマラは多層的な物語から奇想天外な部分を抽出し、ひとりの女性の冒険にした。ユーモアもたっぷり。セクシュアリティの解放を演じたエマ・ストーンは、製作者としても名を連ねる。衣装デザインを手がけたのはホリー・ワディントン ©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
衣装のキーワードは少女性
東ゆみこ(以下、東) 原作は最後まで読むと、それまでが全部ひっくり返されるような小説なんです。
北村道子(以下、北村) 映画にも伏線がありますよね。最初のシーンで、青いドレスの女性が命を絶とうとする。その彼女が妊娠していたお腹の子どもの脳を、ウィレム・デフォー演じる医師ゴッドウィン・バクスターが女性の頭に移植する。そのときに、私はヒポクラテス(※1)を感じたんです。法廷のような部屋で手術する場面にも興味があって。私自身の視点は主人公のベラじゃなくて、ゴッドウィンなんです。
東 マッド・サイエンティスト目線なんですね(笑)。では、もちろんこの話が下敷きにしている『フランケンシュタイン』(※2)もお好きですか。
北村 1973年のビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』(※3)にも『フランケンシュタイン』の映画が出てきますね。対象物そのものを描かずに描写する作品が好きなんです。
——ゴッドウィンはベラに「ゴッド」=神と呼ばれています。
北村 彼を見ていると、医学って独裁的なことじゃないかと思いました。そうでないと、ほかの人間にメスは入れられない。それにゴッド自身の顔がつぎはぎのようにされていますよね。
東 そう、フランケンシュタインの怪物みたいに。それはゴッドも彼の父親による実験体だったからで。
北村 普通の人はあの顔を見ると信用できない。でも、ベラは信じる。それは子どもの感覚なんです。『ミツバチのささやき』で少女がフランケンシュタインを好きになるのと同じ。大体子どもって、異物が好きなんですよ。
東 怖いと思わないんですよね。
ギリシャ出身のヨルゴス・ランティモス監督とエマ・ストーン。タッグは『女王陛下のお気に入り』(’18)以来2度目 ©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
動物的な"モノクロ"の世界
北村 日本でフロイトを研究した岸田秀(※4)という人、私は若い頃彼の本に助けられたんですが、そこに「人間は本能が壊れた動物である」とある。ランティモス監督は必ず人間と動物を比較する。この映画では、本能が壊れていることが“哀れなるものたち”ということなんだと思います。動物は生まれたときにぶるぶるっと立ち上がって、すぐ走り出しますよね。ベラの脳年齢がまだ2歳くらいの頃は、その時間なんです。そしてゴッドは彼女の本能をそのまま守ろうとする。
東 その間は映像がモノクロなんですよね。ベラが成長していくにつれ、色が戻ってくる。
北村 モノクロなのは、たぶんものをカラーで見るのは人間だけだから。動物は視界がモノクロ的なんですよ。
東 動物の時代のベラの視線はモノクロ的だと。素晴らしい考察です。
北村 時代設定はヴィクトリア朝イギリス。でも、エマ・ストーン演じるベラだけは、下着すら着てない。私は、彼女の衣装はヴィクトリア朝の大きなショルダーをはずせば、川久保玲の服だと感じたんです。
東 ああ!
北村 川久保玲の少女性ですよ。ヴィクトリア朝時代の衣服は下着がいちばん重要なんです。コルセットから何から、女中に着せてもらう。なのにベラは下着を着ていないところがパンクなコム デ ギャルソンだなと。特にあのダンスシーンはまさしくそう。フリルも、色合いも究極的ですね。
——ベラが初めて踊りを知るシーン。
北村 あれも動物なんです。本能のままに体を動かすとベラの踊りになる。ほかの人たちは本能が壊れているから、男女ペアになって、教えられたままに踊る。でもベラはむしろ「ひとりで踊りたい!」と、とびきりのパフォーマンスを見せる。本当に、あのままだったら人間はどこまで行けたんだろう、って考えてしまいますね。
東 本能のままでいられたら、人間はどこまで飛翔できたんだろう、と。
北村 今って脳内社会じゃないですか。でもこの映画の2時間余りは、「脳なんていらない」ということを演じたエマ・ストーンとともに、みんな解放されると思う。自由ってこういうことなんじゃないか、って。
東 解放といえば、今作は性もテーマですね。モデルはギリシャ神話のプロメテウス(※5)なんです。土から人間を創り、人間に火をもたらした神。ただゴッド=神がベラを創るんですが、彼女に官能の火をもたらすのはゴッドの助手のマッキャンドルスで。ベラは彼のことを「私のキャンドル」、蝋燭と呼んで、結婚を承知する。つまり、将来官能の火を灯すためにゴッドが助手に準備させるんですが、いったんベラに火がつくと、今度は弁護士のダンカンと大変なことになってしまう(笑)。
街や船、家の中の球体世界
海と空はLEDスクリーン。美術はジェームズ・プライスと、ファッション界で活躍するショーナ・ヒースが担当している。撮影はロビー・ライアン ©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
球体の世界に注目
北村 それと、今回は映画を観る感覚が球体として表れていると思います。
東 球体?
北村 船の上も部屋の中も全部、空が丸天井のようだったり、球体として描かれている。ヨルゴスが見ているのはああいう世界なんじゃないですかね。
東 そこは大変鋭いと思います。映像が円形に歪んでますよね。
©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
——丸い世界観というのは、ギリシャ神話とも通じるんでしょうか。
東 昔の世界観はとても多様です。エジプト神話では、天空の女神が天蓋として世界を覆っていました。北欧神話ではユグドラシルという巨大な樹が真ん中にあって、その中に世界がある。古代ギリシャではアトラス(※6)が天を支えていることになっています。ただ古代神話だけではなく、途中で街の上空を飛ぶ車みたいな装置も出てきますね。あそこだけ近未来的というか。
北村 神話は誰にも再現できないから、ああいった場面を入れることこそが神話なんですよ。ゴッドの部屋では天井が見えなかったんですが、私はあそこにエンジェル、天使たちがわーっといる空想をしました(笑)。
東 私は映画と小説の違いが興味深くて。マッド・サイエンティストの父に創られた息子がゴッドで、そのゴッドがベラを創る。でもベラが去って、ゴッドはまた別の女の子を創るんです。そこは小説にはない。要するに、人間の手による被造物が増えていく。それは現代社会が遺伝子組み換えみたいに生命を作り替え、増殖させようとしていることの象徴のような気がします。
北村 実際、ラストではベラも医師になるんだろうなと思わせる。伏線ですね。3日くらい観続けたい、迷宮の中にいたいような作品でした。やっぱり映画は脚本とカメラワーク、キャスティング、そして絵が大事ですね。
東 あとはそこに独自の視点があるか。その映像で新しい世界を切り開くようなものが「語りたくなる映画」だと思います。
※1 ヒポクラテス:古代ギリシャの医師で、西洋医学の祖。医師の倫理性と客観性を「ヒポクラテスの誓い」に定め、現代まで引き継がれている。
※2 『フランケンシュタイン』:メアリー・シェリーによる19世紀の小説で、多数映像化。『ミツバチのささやき』に登場するのは’31年のホラー作品。
※3 『ミツバチのささやき』:ビクトル・エリセ監督による’73 年の映画。少女アナの体験を描く。
※4 岸田秀:心理学者。エッセイや翻訳も多数。
※5 プロメテウス:人間を創造したとされる神。人間に火を与えたせいで罰を受ける。
※6 アトラス:オリュンポスの神々との戦いに敗れ、天空を支える役目を負った神。