ピアニストより数学者のほうが向いていると思っていた
ジャケット¥640,000・トップス(参考商品)・パンツ¥400,000・スニーカー¥165,000/クリスチャン ディオール(ディオール)
角野隼斗さんのピアノには垣根というものがない。ショパン国際ピアノコンクールのセミファイナリストという輝かしい経歴を持つ一方、「かてぃん」の名前で配信しているYouTubeチャンネルでは、クラシックにとどまらず、ジャズからアニメソング、果てはキユーピー3分クッキングのテーマ曲までを即興で独創的にアレンジ。
やすやすとジャンルを超える自由な演奏は、クラシックになじみの薄い人たちからも支持を得て、現在、チャンネル登録者数は135万人を超えている。
「YouTubeを始めたのは、自分の弾きたいものを発信したいという思いからです。YouTubeを観て、コンサート会場に足を運んでくださる方もたくさんいらっしゃるので、僕にとって大事な活動の場です」
クラシックの堅いイメージを払拭するように、リラックスしたスタイルでピアノに向かう姿も印象的だ。
「服は基本、曲を軸にして決めています。『千と千尋の神隠し』のテーマ曲では、映画の世界観を邪魔したくないので真っ白の服に。ポケモンのときは1作目のジャケットの色合いに合わせて赤と緑のパーカを着たり(笑)。ジャズやカプースチンなどの現代音楽を弾くときは柄シャツが多いですね」
魔術のように音を操り、クラシックの枠を超えて活躍するまさに異能の人。でもその活動は決して浮ついたものではなくて、圧倒的なスキルと楽曲への深い理解に裏付けされたものだ。
角野さんがピアノと出合ったのは3歳の頃。母親がピアノ講師で、「物心ついたときから家のピアノを自然とさわるようになっていた」という。才能はすぐに開花し、小学生のときには、数々のコンクールで入賞するように。
「とにかくホールで弾くのが好きだったんです。いい環境で、いいピアノが弾ける。それが楽しくて、ピアノを弾く喜びにつながっていました」
シャツ¥136,400/ドリス ヴァン ノッテン
ピアノを弾くときは無心で。ただピアノと一体になりたいと思うだけです
楽曲を即興でアレンジするのも小学生の頃からやっていたという、まさに天才キッズだったのだ。音楽に加えて、数学でも特異な能力を発揮。中学・高校と都内有数の進学校に通い、大学も音大ではなく、東京大学の工学部へ。
「そもそも中学・高校時代は、クラシックより、ジャズやロックに傾倒して、バンドでドラムをやっていて(笑)。ピアニストになるなんて考えてもいなかったので、音大より、東大のほうが人生の選択肢が広がると思ったんです」
しかし大学院生のとき、国内最大級のピティナ・ピアノコンペティションで特級グランプリを受賞したことをきっかけにピアニストになることを決意。一見、回り道したように見えるが、「学生生活でさまざまな音楽に触れたことは、自分の音楽を形づくる上で強みになっているし、大学で研究した音響工学も無駄にはなっていない」と言う。
「音の波形を学んだおかげで、音を数学的に扱うことが自分の中にインストールされた感じで。音の抽象的な印象だけじゃなくて、その裏付けを取れるようになりました。たとえばピアニストは、人によって音色が全然違いますよね。それはなぜか。僕たちが“音色”と呼んでいるものは何なのか。データを取って分析したりしています」
数学的に音にアプローチするというとドライなイメージを持つかもしれないが、ひとつひとつの音粒と向き合う切実さは、むしろ演奏をエモーショナルなものにしている。冬の空気のように澄んで美しい音色、歯切れのよいリズムは躍動感に満ちていて、彼が楽曲の鼓動と溶け合っているのがわかる
「著名な指揮者のバーンスタインの言葉に『Life without music is unthinkable.Music without life is academic.』というのがあります。音楽はただの学問になってはダメで、音楽にその人の人生が乗って、自然と感情が湧き出てきたときに、いいものが出てくるのだと思います。だから僕も音の分析はするけれど、弾くときはできるだけ無になりたい。ピアノと一体になりたいという思いだけです」
言葉を選びながら丁寧に静かに話す口ぶりは、その演奏とよく似ていた。
ジャズクラブに行くときは、革ジャンが欠かせない!?
音楽はすでに宇宙にあって、それを見つけに行くもの。そんな考えに惹かれます
近年は国内外でのコンサートツアーや、有名オーケストラとのコラボレーションなど、順風満帆にキャリアを重ねる中、昨年4月からニューヨークに部屋を借りて、東京との二拠点生活に。
「仕事が順調だっただけに、このまま日本にいたら、これで満足してしまうだろうと思ったんです。まだ勉強したいことがあったし、世界を知りたいと思ったんですね。ニューヨークにはジャズや現代音楽、ミュージカルにアートと最新のものが全部ある。いろいろな刺激をもらえると思いました」
セントラルパークでのんびり過ごしたり、MoMAなどの美術館を散策したりとインプットの時間を増やしている。ときには小さいジャズクラブに行ってアドリブで演奏することも。
「飛び入りでセッションすることもあれば、友達のライブに1曲だけジャンプインしたり。曲名が事前にわかっていることもありますが、すべて即興で、その場で、どうぞご自由にという感じ。とても勉強になります。スモールクラブに行くときの服装は、たいてい革ジャンですね。『Hey, man!』みたいなノリの場所では、特徴のない服を着ているとおじけづくんですよ(笑)。でも革ジャンだと少し強気になれる。鎧みたいなものです」
アルバムで向き合った天空の宇宙と心という宇宙
そんな充実したときを過ごす中で作られたのが、角野さんの世界デビューアルバムとなる『Human Universe』。コンセプトは「宇宙」だ。
「自分のバックグラウンドのひとつでもある科学、数学と音楽との接点を考えた結果、古代ギリシャの“天球の音楽”という概念にたどり着きました。これは天体が音を発し、宇宙全体がハーモニーを奏でているという考えなんです。つまり音楽は人間が作り出すものではなくて、どこかにすでにあって、それを見つけに行くというようなとらえ方。これが自分の音楽美学にすごく近いものがあって。それで宇宙をコンセプトにしようと思いました。
『Human Universe』というタイトルにしたのは、“自分の中の宇宙”という意味も込めたかったから。もっとも広い天空の宇宙をテーマにしながら、小さい自分の心を表現しようというアイロニカルなタイトルです」
広大な宇宙をグランドピアノの広がりのある響きで表現し、アップライトのピアノでは静謐で、内省的な心を映し出す。またクラシックから現代音楽まで、ジャンルを超えた選曲も楽しい。
「曲順にもこだわりました。僕が作曲した『Human Universe』は、冒頭と最後、明らかにバロック音楽の影響を受けているので、そのあとにバッハを置いて。坂本龍一さんがドビュッシーを敬愛していたから、そのふたつを並べたり。そんな過去と現在のつながりも感じていただけたらと思います」
角野さんの前に広がるのは、無限の宇宙のごとく、無限の可能性。これからいったいどこに向かうのだろうか。
「長い歴史と伝統を持つクラシック音楽に、時代性を反映しながらどのような表現ができるのか、ということです。たとえばジャズとクラシックを融合したサード・ストリームという流れが20世紀半ば頃からありました。その先駆者がガーシュウィンで、僕も大きな影響を受けています。21世紀に生まれたクラシック音楽を聴いてみると、多様なジャンルの影響を受けた音楽がたくさんあります」
どの方向に進むにしても要となるのはやはりクラシック音楽だ。
「クラシックが300年前から現代まで残っているというのは、それだけ曲自体のパワーがものすごくあるということ。なぜショパンやバッハがあれだけ現代の人にも愛されているのか。それは人間が本能的に惹かれてしまう普遍性をクラシック音楽が持っているからです。僕もクラシックを軸足にしつつ、これまで触れてきたいろいろな音楽のエッセンスを込めた作曲や編曲がもっとできたらと思っています」
Q1 最近、読んでいる本を教えてください
誕生日にもらった指揮者のバーンスタインの本。クラシックの人ですが、『ウエスト・サイド・ストーリー』などのミュージカルも作曲していて、好奇心で動く、すごくエネルギッシュな人。音楽家として近いものを感じています。
Q2 いつも持ち歩いているものは?
アイマスクです。移動が多いので、飛行機とかでいかに良質な睡眠を確保するかが大事で。でも、すぐになくすんですよ。バッグの中にあるはずがない。そんな自分にイラついて、先週Amazonでまとめて10個購入しました(笑)。
Q3 宝物は何ですか?
スタインウェイのピアノ。コンクールに優勝したときの副賞に1年間、無償貸与されていたものを返却時に買い取りました。弱音がすごくやわらかくてきれいで、高音の倍音がよく鳴る感じ。弾いていて、とても満足できるピアノです。
Q4 親友はどんな人ですか?
難しいですね。パッと思い浮かんだ大学時代からの友人は、非常に要領がよくて、効率主義的なところがあるんだけれども、しかしそんな自分を外からシニカルに見ていて、本当は少年のような内面を心の奥底に持っている人です。
Q5 コンサート前の勝負めしは何ですか?
食べると眠くなるし、体が重くなるので直前は食べません。運動選手がやっている「カーボローディング」という手法によると、8時間前に炭水化物を摂取するといいらしいので、夜の公演のときはランチにパスタを食べたりします。
Q6 角野さんが美しいと思うものは何ですか?
ひとつは宇宙とか夜空とか人間が創造できない超自然。もうひとつは、制約のある中での最大限のクリエイティビティ。直線と3色のみを用いたモンドリアンの絵のように、制約の中で極限を追求しているものに美を感じます。
Q7 弱点は何ですか?
すぐに忘れることです。いろいろなことをやっているから、マルチタスクが得意と思われるんですけれど、ひとつのことに集中していると、あとがぽっかり抜けちゃったりして。じつはマルチタスクに向いていません。
Q8 体にいいこと、何かしてますか?
ニューヨークでジムに通っています。ジムの地下にサウナとジャグジーがあって、それが楽しみで行くんですけれど、サウナで上半身裸になると周囲はムキムキのマッチョな男たちばかりで。細身の僕としては肩身が狭いです(笑)。
Q9 音楽以外の趣味はありますか?
昔は音ゲーとか、リズムゲームが好きでしたね。最近の趣味は「言語」でしょうか。独学ですけれど、いろいろな国の言語を学ぶのが楽しくて。構造から勉強するのが好きなので、一度覚えると長期記憶になって忘れないようです。
Q10 座右の銘は何ですか?
すごく好きな言葉を見つけたんです。数学者のジェームス・ジョセフ・シルベスターの言葉で、「音楽は感覚の数学であり、数学は理性の音楽である」。……素敵!! と思って。自分も同じようなことを思いながら音楽をやっています。
いつも持ち歩く必需品はアイマスクのほか、ピカチュウの日焼け止めとディオールの香水。「ピカチュウは可愛くて大好きです(笑)。先日シチリアにコンサートに行ったら、むちゃくちゃ日差しが強くて。日焼け止めは欠かせませんね。香水はいただきものですが、さわやかな香りで、外出時や寝る前にもたまにつけています」
お気に入りの本は、バーンスタインのインタビューほか、心理学者・加來道雄の『パラレルワールド』や、歴史学者・本村凌二の『多神教と一神教』なども。また、モンドリアンの小さい手帳には、各国の言語に関するメモがびっしり
旅先に必ず持っていくミニキーボード。「キーボードはピアノの練習にはならないですけれど、ちょっとした楽譜を入力するのに便利ですね」。ヘッドホンは、AirPods Maxを愛用