恋する心の動きに密着し、つぶさに描写した恋愛小説集『印象・スケッチ』
井戸川射子さんの『印象・スケッチ』は、ふたつの恋愛小説を収めた作品集。どちらも恋が始まって終わるというシンプルな話だが、表現方法は各主人公の感情の揺れ動きを逐一描写していく形。まるで点描画を描くように、克明に、丹念に。
「いろいろな心の動きを小説で書きたいと思っています。恋愛には嫉妬心や自信のなさとか、これまで書いてきたさまざまな家族の話とはまた違う、恋ならではの心の動きがあります。そこで恋愛の一事例をたくさん見せようと。『印象』は4つの短編に分かれていますが、皆さんがどこかに自分と重なる部分を見つけ、『あるある』と感じてもらえる場面が多そうです」
4つの短編「門」「産湯」「乾布」「橋」は、言葉が通じない髪の長いほうと短いほうとか、人間ではないもの同士とか、恋する者が多種多様。どこか神話的な雰囲気だ。
「最初に思いついたのは『産湯』で、太古の記憶を持ち続けている海藻と魚の恋。恋愛を書くのも恥ずかしくて照れがあるから、ファンタジーのようになったのかもしれません」
「橋」は湖畔の小さな山が、対岸で向かい合う大きな山とひっそりと恋を育む話。お互いにどうにかしてつながりたいと思いを募らせているうちに、大きな山がとんでもない方法を思いつく。人ではないものの恋愛は、切なさがさらに加速する。
「恋では何が吉と出るか凶と出るか、手近でこれほど思い通りにならないことはない気がして。この不可能性はとても面白いなと思うんです」
もうひとつの「大差螺旋のスケッチ」は、寿命が40歳の“きみ”と120歳の“相手”という、大きく差のあるふたり(性別はわからない)が、ネットで出会って遠距離恋愛をする話。
「恋が始まって終わり、復縁したもののまた終わるとか。何かが終わったときの気持ちの立て直し方を考えたくて書きました。一度目の失恋では『どうにかしようがあったのでは』と思い返して後悔する。でも二度目だと諦め気分が漂って、こういう運命だったんじゃないかと考える。そういう気持ちもわかるなと思います。一度別れても復縁する、その心理も興味深い」
最初から“きみ”は“相手”に夢中だけれど、“相手”はそれほどでもないという姿勢を崩さない。つき合っている状態になっても、会いたくなって行動を起こすのはいつも"きみ"。緻密に書き込まれたときめきや落胆に胸が締めつけられる。
「愛を差し出す量も欲しがる量も人それぞれ。単に思いやりがないのか、自分のことを好きではないのかは識別できません。恋愛の密度の高さを求める人もいれば、悠長に構える人もいる。それがここでは寿命の長短によって異なったのかどうか。人の個性によって違うことがもどかしくて、こういう設定になりました」
井戸川作品は独特の文章によって物語世界へと誘われる。本作は長いセンテンスで書かれているため、主人公の恋心の移り変わりがよりいっそう凝縮され、畳み掛けるように伝わってくる。
「私の作品は読みにくいと言われることもあります。でも人の思念はわかりづらいもの。この小説は恋をするひとりの考えに密着しているから、こういう文章になりました。最初は読みにくくても、好きな人がいて思い悩んでいるという、誰もが経験してきたはずの恋する気持ち。実はシンプルなんです」