「中年」と「更年期」を描く『はいつくばって』。翻訳家・岸本佐知子さんに聞く

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女性読者が熱く支持した待望の新作長編を翻訳

岸本佐知子

「わたしは今こんなだけれど、みんなはどう?」人生の急流を並走しながら、ミランダ・ジュライは呼びかける

“われらが”ミランダ・ジュライ。そう呼びたくなる同時代の女性アーティストが、新作長編『はいつくばって』で9年ぶりに小説の世界に帰ってきた。翻訳はもちろん、これまで彼女の出版3作品を手がけ、またルシア・ベルリンやショーン・タンはじめ、今“われらが”欲する物語を訳し届けてくれる岸本佐知子さん。

「2015年に初めての長編『最初の悪い男』を書いてからは、ミュウミュウとの短編映画製作やインスタレーションなどに取り組んでいたミランダ・ジュライ。小説はしばらく書かないのかなと思っていたところに、この作品がバーン、と出てきました。テーマはずばり『中年』と『更年期』、すごい、そう来たか。けれど彼女はいつも予想を裏切る人だし、これまでも常に自分の人生と密接に関係することについて書いてきた。更年期を迎えれば、当然それについて書いたであろうということはよくわかります」

50代を目前にした頃、ミランダ・ジュライの創作メモのフォルダ内には「中年・加齢・女性性などにまつわる『ロード・オブ・ザ・リング』のような話」が立ち上がっていたらしい。主人公は、45歳のアーティストの「わたし」。音楽プロデューサーの夫と幼い子どもとLAで暮らす家を出発し、単身NYへのドライブ旅行に出かけるのだが、出発直後から小さな町のモーテルにとどまることになり——という、自宅からわずか30分圏内で繰り広げられる、女性ホルモンと涙(と体液)と感情の乱高下に彩られた魂のオデッセイが完成した。

岸本さんは過去のインタビューで、翻訳とは作者の声をとらえること、と語っていた。この作品を訳しながら、ミランダ・ジュライの声はどんなふうに響いてきただろうか。

「今までと違うぞ、すごく“生”だ。という感じがしました。それまでの作品に出てきた主人公たちも、ある程度作者の分身ではあったと思いますが、今回は、よりストレートでダイレクトに肉声が伝わってくる。『はいつくばって』の『わたし』は、年齢や職業、経歴、夫や子どもの存在などの点でミランダ本人と今までで一番重なるところがあります。この小説を書きながら自分の経験を同時進行的に盛り込んでいった部分もあるのでは。ただし『わたし』が最後まで名付けられないのも、おそらく意図的なもの。主人公は自分自身でもあり『みんな』でもある、という意味もあるのだと思います」

9年ぶりに彼女の本を訳しながら「『本当にひさしぶり』と、昔の友達に会ったような感じがしました」と岸本さんは振り返って言う。

「もうひとつ、今までにない要素が女友達の存在です。シスターフッドはもちろん、女同士の絆や恋愛については、今までの彼女の作品には意外になかった新しいテーマ。そもそも、ミランダは自分が更年期に直面したとき、とにかくいろんな女の人に話を聞きまくり、何千ものメモをとったらしいんです。それもまたこの物語の成り立ちの基本にある」

岸本佐知子

女性の、特に中年の女性を主人公に更年期を真正面に描き、しかもそれが成長と連帯の冒険譚になっている。確かにこんな小説は今までなかった。アメリカでの刊行時も「よくぞこれを書いてくれた」という女性の声が大きく、読書会やチャットがものすごく盛り上がったそうだ。

「彼女の作品には『わたしって今こういう感じなんだけど、みんなどうよ?』という問いかけがあるんですね。作中にも『わたしは他人であるというのはどういう感じなのか、いつだって知りたくてたまらない』という彼女の本音が出てきます。あとがきにも書きましたが、ミランダの小説を訳していると『誰もが一人乗りの小舟に乗って時間という川の流れを一方向に進んでいく』というイメージが頭に浮かびます。同じ舟で一緒の人生を生きることはできないけれども、みんな一緒に流れていくのだから、連帯していたいよね、という願望を感じるのです」

『はいつくばって』を読んでいると、確かに「わたし」はミランダであり、自分であり、隣にいる彼女であるという実感がある。「わたし」同士が、人生のジタバタを、その切実さとおかしさを分かち合いたくなる一冊なのだ。岸本さんはうなずきながら言った。

「この先、自分自身も含めて、どんどんみんな老いていくじゃないですか。そのときになって、ミランダ・ジュライは何を書くのかな。たとえば、膝が痛くなってきた、とか、ちょっと思い出せないことが増えてきた、そんなことももしかしたら書いてくれるかな、って思うと、すごく楽しみだし、心強いんです」

岸本佐知子プロフィール画像
翻訳家岸本佐知子

訳書にルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』、ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』など。ほかに編訳書や著書も多数。2007年『ねにもつタイプ』で講談社エッセイ賞、’26年伊丹十三賞を受賞。

『はいつくばって』

『はいつくばって』

ミランダ・ジュライ著 岸本佐知子訳
新潮社/3,245円

短編集『いちばんここに似合う人』、フォト・ドキュメンタリー『あなたを選んでくれるもの』、長編『最初の悪い男』に続く4冊目のタッグ。