2021.05.18

AVMのオーダーリング ▶ 夏帆

フランスでファッションを学んだ古川広道によるジュエリーブランドAVM(アーム)。光を円形に反射する昼の太陽のイメージを表面に、裏側にはエンジェルのイメージを彫刻している

 昨年、根室に行った。かねてからずっと行ってみたいと思っていた場所だった。  
 中標津空港から車で三時間。途中、摩周湖によりながら、本土最東端の納沙布岬のある根室に到着したのは、もう陽が傾きはじめた時刻。
 車から降り立ち、縮こまった身体を伸ばすと、ふわりと潮風が頰を掠める。いつまでも蒸し暑い東京にくらべ、とうに夏に終わりをつげたのだろう。秋の暮れを感じ、すがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込む。
 根室では一緒に同行した友人の紹介で、AVMのデザイナーである古川さんが出迎えてくれた。古川さんの車に乗り込み、見晴らしがいいという高台に連れて行ってもらう。窓を開けると、気持ちのいい風が車内を通り抜けていく。
 しばらく車を走らせ、目的地の高台に着くと、眼下にうつくしい景色が広がっていた。
 薄暮のすこし霞がかったブルーグレーの空に、柔らかな夕日が淡く滲んで、やさしく海に反射している。空と海が混ざり合う。そのすべてが静寂に包まれて、時間さえも透過されていくようで、まるで夢の中にいるみたいだと思った。ふわふわとした心持ちでぼんやりしていると、鹿の群れがじっとこちらを見ているのに気がつく。なぜだかすこし恥ずかしくなる。
 「根室のB面をご案内します」と笑いながら、古川さんがガイドブックにはのっていないとっておきの場所にたくさん連れて行ってくれた。
 地元の美味しいご飯、こっくりとしたモール温泉、モネの絵画のように透きとおった日差し、たおやかな川の流れ、生き生きとした野生の動物たち、そして偶然遭遇したクマのたくましい後ろ姿……。
 たった二日間の滞在だったけれど、そのひとつひとつに、ささくれた心がゆっくりとまあるくなっていく。たゆたう時が、身も心も洗い流してくれる。
 東京にいると、気付かぬうちに、いろんなことに鈍感になっていたのかもしれない。
 すっかり根室が好きになったわたしは、この時間を記憶に留めておきたいと思い、古川さんにお願いして指輪をオーダーさせてもらうことにした。黒いアクセサリーケースに行儀よく並んだ指輪たちは、どれもやすらいでいるように見えて、手に取ると、古川さんの人柄がふわっと伝わってくる。背筋をただし、神聖な気持ちで、ひとつひとつ選びとっていく。  
 さんざん迷った末、ころんとしたピンキーリングに決めた。シンプルなリングに見えるけれど、内側には、天使の絵柄が繊細に彫り込まれていて、あまりのうつくしさに溜め息をもらす。アクセサリーをオーダーしたことのないわたしは、どきどきしながら、素材や刻印を決め、一ヶ月後に届く指輪に思いを馳せる。えいやっと奮発した買い物だったけれど、不思議と心が満たされていくのが心地よかった。   
 指輪が届いたのはそれからきっかり一ヶ月後のことだった。    
 はやる気持ちを抑え、箱を開けると、ふわふわとした布の上で、あのピンキーリングが静かにこちらを見つめている。丁寧に手に取ると、ホワイトゴールドの表面に、うっすらとゴールドのコーティングが施されていて、これは、古川さんがわたしのイメージで作ってくれたのだと同封された手紙に記されていた。わたしだけのとくべつな指輪だと頰がゆるむ。ゴールドとシルバーが混じり合って、根室でみたあの澄んだ光にどこか似ていると思った。
 さっそく小指にはめて、眺めていると、ふいに根室の風が指先から全身にすぅーっと吹き抜けていく。目を閉じると、あのときの空が、海が、目の前に広がっていく。やさしい幸福感に包まれる。小指に小さな光を纏ったわたしは、きっと、どこへでも行けるだろう。 
 そんな買い物をしたのは、生まれてはじめてのことだった。

かほ●1991年生まれ。女優。『天然コケッコー』(’07)で日本アカデミー賞新人俳優賞受賞。代表作に『ブルーアワーにぶっ飛ばす』(’19)、『Red』(’20)ほか。