エルメスのブレスレット ▶ 菅野麻子

パンクを象徴する安全ピンとメゾンを代表する「シェーヌ・ダンクル」が融合した「シェーヌ・ダンクル・パンク」と、四隅にスナップボタンがついたレザーのトレー"ヴィド・ポッシュ"

「右足の靭帯が切れていますね、マダム」
 パリの病院を初体験したその日、白髪に赤縁メガネがダンディなドクターに、優しい声でそう告げられた。昨晩はパリコレ取材も最終日。仲間との宴に向かう途中、道の段差につまずき、ひどい転びかたをしていた。その夜は、足の痛みや炎症もほろ酔いで深く考えず。朝起きると、足の甲は巨大なおまんじゅうのように腫れ上がり、自力では歩けなくなっていた。「安静に」と松葉杖を渡されて、ひとりホテルへ戻る街の景色はなんと物悲しく見えたことか。
 楽しみにしていた、翌日からのコペンハーゲンへの旅はキャンセルに。東京に帰りたくとも、ハイシーズンで空席はゼロ。帰国便は4日も先となった。その後2日間の記憶はおぼろげだ。痛い足に、熱を持ってだるい体。仲間たちは、あの愉快な夜を最後に帰路についていたし、多忙なパリの友人たちを煩わすのも気が引けた。松葉杖でとぼとぼ向かう近所のカフェは、かなり残念なお味。自分の失態に落ち込んだり、呆れたり。ひとり鬱々と過ごしていた。
 松葉杖が腹心の友となった3日目の朝。鏡に映る惨めな自分に、天の啓示が降りてきた。「そうだ、お洒落をしてエルメスに行こう!」。実は、パリに到着するや否や、自分の誕生日を口実にブレスレットを下見していた。大好きなパリが、このまま悲しい記憶で終わるなどとんでもない、美しい記念の品を持ち帰ろう。そう自分を鼓舞し、お気に入りのランバンのロングドレスでギプスを隠せば、松葉杖姿もエレガントに見えてくるような。ふつふつと勇気も湧いてきたところでUberを呼び、いざエルメスへ。
 店に入ると、パリのエスプリ薫る上質な空間に気分は高揚し始める。しかも、松葉杖の私にスタッフの優しさといったら。「マダム、どうぞこちらへ」と心地よい椅子へと案内され、温かい飲み物をいただきながらブレスレット選びに一心不乱。「シェーヌ・ダンクル・パンク」を腕につけてもらった瞬間、大きな鐘がキンコンと頭に鳴り響き「これ、いただきます」と久しぶりの笑みがこぼれていた。パンキッシュな安全ピンのフォルムに、優美な曲線が溶け合うデザイン。哀れな私を激励するかのような優しくも凛とした佇まいに、目の前の霧はすーっと晴れてゆく。もうこの胸の高鳴りは止められず。頑張った自分にご褒美を、と言い訳しつつ「トレーも見せていただけますか?」。ホテル滞在には、このブレスレットを置く“ヴィド・ポッシュ”が必要じゃない? そうだ、旅の多い友人の誕生日プレゼントにも、色違いを買っていくことにしよう。そうそう、懇意にしてくださる大好きなご家族。仲良し姉妹が、同時期に出産なさったばかりだ。「ベビーシューズとスタイも2セットお願いします!」。なんてお買い物は楽しいのだろう。贈る相手の笑顔が浮かび、幸せな気持ちになってくる。地球のマントル深部に取り残されたかのような孤独感など、どこへやら。荷物はホテルへお届けしましょうか?という申し出はありがたく受けつつ「ブレスレットはつけて帰ります」と、もう離れられない気持ち。かかったエンジンのギアをあげ、次は美術館へ。眼福のあとは、美食に飢えていた胃袋に大好きなビストロのポトフを流し込む。まさに無敵。パリの街は一転、すべてが輝いて見えた。
 世界が一変した今。大きな環境の変化には日々戸惑いがある。それでも、あの日からいつも私の手首に鎮座するこのよき相棒は、パリの記憶とともに健康のありがたさや、心の持ちようで目前の景色が変わることを思い出させてくれる。実際に旅に行くのが難しくても、モノが連れだしてくれる心の旅は無限大だ。様々な感情を引き出してくれるモノとの出会いは、新しい自分と出会うこと。モノが繋げてくれる未来の景色を、もっともっと見たいと心から思う。

かんの あさこ●エディター・ファッションディレクター。数誌のディレクターを務めたのち独立。モード誌やカタログなどを手がける。海外のラジオを聴きながら世界中へ妄想旅行中。

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