2020年春夏コレクションで登場した「Festival」シリーズ。鮮やかな発色が目を引くソフトな質感。ポインテッドトゥが美しく、レトロモダンな仕上がり
去年の夏、人生でいちばん高い靴を買った。
レペットというブランドのバレエシューズで、約五万円がクリアランスセールで半額以下になっていたから、安いと思う人もいるくらいだろう。
けれど、私には考えられないことだった、靴に二万もかけるなんて。しかもド派手なピンク色で先が尖っていて、なにと合わせればいいかも、どこに履いて行けばいいのかもわからない、そしてどこへ履いて行こうとすぐに足が疲れて痛くなるような靴に、普段履いているアウトレットの格安スニーカー五つ分のお金を払うなんて。
それでも私は買ってしまった。買わない理由はいくらでもあったのに、ただそれを手に入れたいという単純な欲望ひとつに突き動かされて、気づけば購入ボタンを押していた。
そうして届いたその靴は、やはり見惚れてしまうほど美しかった。脳みそをゆさぶるようなビビッドピンク、なめらかなカーブがつんと描く優雅なつま先、柔らかいスウェードの子ねこみたいな触り心地。なんてきれいなのだろう、とその日はずっと眺めていて、それだけできらきら光るあまい水が胸に満ちていく思いがした。
しかし、あれからまもなく一年が経とうとしているのに、私はまだあの靴を履いて外に出ていない。家の中では履いてみたのだ。そわそわと浮き足立った夜なんかに、靴箱にしまわれたそれをこっそり取り出しては、足にまとわせてうっとりしたりとか。まるで母親のハイヒールに憧れるこどもみたいだけれど、私はそれがたしかに私のものであると知っている。それなのに、どうして自信が持てないのだろう。
私はときおり、私がものを身につけているのではなく、ものが私を身につけているのではないか、と思うことがある。たとえば買い物をするとき、さっきまで誰のものでもなかったそれが、支払いを済ませた途端にショーウィンドウの中のものとは区別され、私のものとして生まれ変わる瞬間なんかに。それから、街ゆく人が身に纏う、私の持ちものとまったく同じものが、彼女のもとでは別人みたいな顔をしているのを目撃したときにも。
そんなとき、私のものはどうして私のものなのだろう、と思うと同時に、自分がものすごく空虚でからっぽな何かであるように感じる。私はひとりの形ある存在ではなく、服や靴やピアスやズボン、それから本とボールペンにメガネケース、もはやものだけにとどまらず、知人や友人、今ではろくに会うこともなくなった幼なじみに同級生、もっと身近な家族と恋人、私の周りにあるあらゆるものに、ばらばらに宿った曖昧で不確かな事象にすぎないのではないか、という気分にすらなる。それはひどく虚しく、でも悲しくはなくむしろあたたかい。この身はいずれ朽ちるけれど、私を知る人たちや、私を宿したものものは、形ない私をきっとこの世に残し続けてくれるから。
私たちが出会いと別れを繰り返し、それでも懲りずに新たな関係を求めたり、絶えず新しい装飾品を買うのはつまり、いつか奪われる肉体という刹那への抵抗であるのかもしれない。
私のビビッドピンク色の抵抗は、けれどまだその役割を果たしていない。あのバレエシューズには、私が宿っていないからだ。なんせ、履いて見せたのは家族くらいのものだし、オンラインで購入したから、会計をして店員さんに渡されるという儀式も経ていない。誰かに私のものとして認められる経験が足りていないから、こんなにも私のものである気がしないのだろう。
この夏こそ、たくさん履いてどこへでも行き、足を痛めながらも、いろんな人にあの靴を褒めてもらうことにする。そうして、まばゆい日差しの下で花笑むようにきらめく、強く鮮やかなつつじ色が、若く身の程知らずな私のことが、その瞳の奥でずっと消えずに残ったらいいな。
うちだ ぐあま●1999年生まれ。女優・エッセイスト。映画『カインの末裔』(’07)でデビュー。2020年より随筆家として活動。母は漫画家で小説家の内田春菊。