2022.08.11

8月6日、平和大橋から

3年ぶりに広島へと旅しました。8月6日に訪ねるのは、初めてのこと。式典後の平和公園は人であふれ、慰霊碑に延びる追悼の列はどこまでも長く続きます。川辺では灯篭流しの準備中。改修後に初めて訪れた原爆資料館で時間を過ごし、重い足取りで平和大橋を越えてホテルに戻りました。

8月6日、平和大橋からの画像_1
8月6日、平和大橋からの画像_2
8月6日、平和大橋からの画像_3
8月6日、平和大橋からの画像_4
投下後、3日目には運行を再開した市電。現在でも被爆列車が走っている

見たものすべてが頭から離れません。なかでも資料館の展示入り口付近に掲出された幟町尋常小学校の写真が、その後の悲劇を相対的に浮き彫りにするようで、頭から離れない。1930年代前半に撮影されたそれは、先生と子供たちのポートレイトで、全員がとびきりの笑顔を見せています。無邪気な歓声が耳に届くような活き活きとした白黒写真に、喉の奥が詰まりました。広島には、当たり前の日常があった。普通の市民が学び、働き、私たちと同じように毎日を生きていた。それを生身で確信したのは、翌日に参加したVRツアーでした。忘れられない体験をここに記します。

8月6日、平和大橋からの画像_5
旧中島地区の面影を残すのは、公園内ではこの建物のみ。VRツアーはここ旧燃料会館から始まる。野村英三さんが奇跡的に生き残った地下室も公開

VRツアーが、去年から始まっています。平和公園がある場所は、被爆前は中島地区という繁華街でした。元安橋でゴーグルをはめると、月曜日の朝8時過ぎ、橋を往来する出勤中の人たちが眼前に現れます。白黒ではない、色のある、当たり前の光景。軍服やもんぺ姿だけれど、私たちと同じ普通の人々です。15分になったとき、誰かが空を見上げ、何かを指差す。つられて空を見上げると——。

8月6日、平和大橋からの画像_6
広島を訪れるすべての人にこのツアーを体験してほしい!参加後、心から、そう思っています

資料館では上空から投下される動画が展示されているけれど、ツアーでは等身大の目線からその一瞬を目撃することになります。投下直後のビジョンは、燃料会館で勤務中、偶然地下室にいたために唯一の生存者となった野村英三さんが、地上に這い上がって見た絵図。言葉になりません。

8月6日、平和大橋からの画像_7

平和公園内のモニュメントを巡ります。爆風で吹き飛ばされた慈仙寺の墓石も、そのひとつ。旧中島地区の地面が一段低かったことが分かる場所でもあるのです。平和公園はじつは瓦礫の上に盛り土がされていて、地中にはまだ旧中島地区の人々の暮らしが眠っている——そう聞き、足もとを見てはっとしました。

8月6日、平和大橋からの画像_8

被爆から10年後に亡くなった佐々木禎子さんと折り鶴の物語は、知っている人も多いはず。資料館には実際に彼女が折った小さな、小さな無数の折り鶴が展示されています。ツアー最後に見学するのは、犠牲になったすべての子供たちのために建立された「原爆の子の像」。

8月6日、平和大橋からの画像_9

その日も、平和大橋を歩きました。まるで生きているような欄干は「再建広島の理念を伝える」ために、イサム・ノグチが1952年にデザインした作品です。

 

8月6日、平和大橋からの画像_10

東京に戻った翌日、三宅一生さんの訃報が届きました。三宅さんは学生時代、平和大橋を自転車で渡っていたそうです。この橋が持つ、デザインのちからに感銘を受けた10代の三宅さん。ああ、あの日、もうイッセイさんは旅立っていたのか。涙がこぼれました。

 「祈る平和から、つくる平和へ」。VRツアーの最後に、こんなメッセージが映し出されます。過去を語り継ぎ、祈るだけではなく、平和な未来を創るために何ができるのか。あの日から、自分に問い続けています。

SPURでは平和に関する特集を度々掲載しています。戦後77年。世界では戦争が進行形で起こっている今、ぜひ読んでいただければと思います。 

 

エディターIGARASHIプロフィール画像
エディターIGARASHI

おしゃれスナップ、モデル連載コラム、美容専門誌などを経て現職。
趣味は相撲観戦、SPURおやつ部員。

記事一覧を見る

FEATURE