9月、クリスティーヌ・ナジェルに会った。インタビューするのは、「ギャロップ」のデビュー時以来だ。ひとりでこっそりと創ったという過程からしても特別な香り「バレニア」。エルメスというメゾンだからこそ、そしてクリスティーヌだからこそ生まれた、唯一無二のシプレの秘密を聞いた。

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2024年の香水ニュースといえば、【エルメス】初のシプレ。今、手にすべき香りの魅力を解体する

9月、クリスティーヌ・ナジェルに会った。インタビューするのは、「ギャロップ」のデビュー時以来だ。ひとりでこっそりと創ったという過程からしても特別な香り「バレニア」。エルメスというメゾンだからこそ、そしてクリスティーヌだからこそ生まれた、唯一無二のシプレの秘密を聞いた。

バオバブの木に住む、魔術師からの贈り物

エルメス バレニア オード パルファム
「コリエ・ド・シアン」。犬の首輪として1920年代に誕生し、後にブレスレットとしてエルメスのアイコンになったアクセサリーにはこんな逸話がある。来店したある客が「いちばん大きな首輪を欲しい」と言う。聞けば、ベルトにしたいというリクエスト。着想を得たエミール・エルメスが、ブレスレットに展開したのがコリエ・ド・シアンの始まりだ。さまざまな姿に形を変え、愛されてきたモチーフが、このたび初めて香りのフラコンに。バレニア オード パルファム(100㎖)¥24,860・(60㎖)¥18,370・(30㎖)¥12,650/エルメスジャポン(エルメス)

 ちょっとした実験をします。
 噛まないで、口の中で溶かしてください。そう彼女が指さした先に目を落とすと、小指の先ほどの赤い実が数粒。クコのようにも、ザクロにも見えるそれを、指示通りに一粒口に含む。やがて外側の果肉が溶けていき、遠くにアプリコットの風味を感じた。今度は、くし形に切られたレモンを指して、齧りついてみて、と言う。脳裏を駆け巡る酸味。躊躇したのちエイッとレモンを噛みしめると、酸っぱくない。むしろ、キャンディのように甘いのだ。
 エルメスの香水クリエーション・ディレクター、クリスティーヌ・ナジェルのシプレの物語は、あとに口にするものを甘く変容させる不思議なフルーツと、子どもの頃に繰り返し読んだお伽話から、静かに滑り出す。

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クリスティーヌ・ナジェルは、スイス生まれ。ジュネーブの大学で有機化学を学んだあと、クロマトグラフィー分野での香水素材分子分析の研究開発を経て、調香師となる。ジボダン社をはじめ、トップメーカーに所属し、名だたるメゾンの香りを手がけてきた。2014年、エルメスの専属調香師に就任

「アフリカのバオバブの木に住む魔術師のお伽話です。魔術師は村人から愛されていた。というのも、彼にはある魔法があって、苦いものも酸っぱいものも甘くしてしまう。人の性格もそう。どんなに気難しい人も優しくなる。その魔法に彼は、小さな赤い実を使うのです」
 調香師は赤い実を探し続けた。のちに出合ったのが、ガーナやベナンで採れるフルーツだ。名前を、ミラクルベリーという。迷わず果実を取り寄せた。それも15㎏もの量を。
「抽出に挑んだのですが、採れたエッセンスはひとしずく。ただ、その一滴に触れて、私はあっと驚いたのです」
 アプリコットやプラム、ドライフルーツのようなオーラに導かれ、化学の力でそれを再構築した。このミラクルベリーの合成香料こそが、エルメス初のシプレに、さらなる魅力と深みを与えるカギとなる。

ただ直感を信じて。 シプレへ続く10年の旅

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今までにはない革新的な素材を組み合わせて誕生したメゾン初のシプレノートは、個性と洗練性を両立させるタイムレスな香り

 意外にも思えるが、エルメスにそれまでシプレは存在しなかった。誰から依頼があったわけでもなく、クリスティーヌは人知れずプロジェクトを温めはじめた。たったひとりで、エルメスのシプレを創る冒険だ。
「さかのぼること10年ほどになります。そう、エルメスに入ったときから、いつかこのメゾンでシプレの香りを創るという確信がありました。なぜシプレなのか? シプレは美しい構造をもち、時を超える香り。時を超えた存在であるエルメスにふさわしいと」
 そのためにはエルメスの、また女性像への理解を深める必要がある。そう考え、メゾンの妥協なき仕事や、細部へのこだわりに情熱を捧げる職人たちとの日々を経て、確信の輪郭はより明確になった。
「エルメスの女性はエレガントであること。そして直感を信じる力のある女性たち。直感はシプレにとっても大切な要素なのです。なぜならシプレは、より複雑に素材を組み合わされていますから」

 クラシックなシプレの構成はこうだ。フレッシュなトップノートに、ふくよかなローズやジャスミンなどのフローラルブーケが続く。そのあとにオークモスやパチュリ、ときにシトラスが用いられる。でもエルメスで創るのならば、新しい扉を開くシプレでなければ意味がない。そう考えた彼女は、直感の翼を無限に拡張していく。

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バレニア、という名前は、エルメスの中でも特別な存在の"なめし革"に由来する

「特別な素材を探しました。トップにはカラブリア地方のベルガモットを。透明感があって、ピュアな香りをもたらす、青みが残ったグリーンなベルガモットを特別に調達しました。フローラルブーケにはローズやジャスミンは使わず、マダガスカル産の、小さな花弁をもつジンジャーリリーを選びました。この規模のレディスの香水でジンジャーリリーが使われるのは、初めてのことです。オークモスも使っていません。代わりに火に炙ったオークウッドの皮を用いて、官能的でやわらかな香りを活かしました」
 実際のオークウッドを手に取ってみる。ラム酒のようなコク。その芳香にしばしうっとりする。
「よいでしょう? オークウッドが香水の骨格的な存在となっています。パチョリはふたつの形態で使いました。伝統的な手法で採取したパチョリと、バイオテクノロジーを用いた素材分子のふたつ。アキガラウッドという名前の素材です」
 そして、先述のミラクルベリー。惹きつけられるような甘やかな引力が加わり、秘密裏のプロジェクトは「完成した」と思える瞬間を迎えた。生まれたての香水とともに、アーティスティック・ディレクターのピエール=アレクシィ・デュマを訪ねたときの彼の言葉が、この香りの本質を浮き彫りにしている。「大好き!」という率直で直感的な感想は、感情を揺さぶられた証左でもあったからだ。

肌に触れることで 香りが自由に語り出す

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最後にクリスティーナに聞いた。もしも来世があったなら何になりたいですか?「私は物事を"転換"させることが好きなので、錬金術師になるのもいいと思っていますが、また調香師になるのも悪くないですね。もちろん、エルメスの調香師、のことですよ。世界でいちばん美しい仕事を、いちばん美しいメゾンでさせてもらっている――。こんなに素晴らしい人生、ほかにありますか?」

「バレニア」という名前は革の素材名だ。
「エルメスの革職人に、バレニアは肌を優しくなでるようなレザーだよ、と言われたことがありました。この香水も同じ。肌に触れることで、より息づいてくる官能的な香りです」
 レザーに始まり、シルクやすべてのメチエにおいて、エルメスの中心にあるのは素材と職人技だ。最良の素材を厳選しているのはもちろん、それを活かす人間の手を尊んでいる。そして、時間と自由という価値も。
「時間はかけがえのない贈り物です。エルメスは時間という最高のラグジュアリーと、完全なる自由を与えてくれる。だから一歩進んだ、別の角度からものづくりをすることが可能なのです。私のかつての夢はメゾンの調香師になることでした。私の夢を現実のものにしてくれたのは、唯一エルメスだけ」
 その言葉に、はっとした。5年前の北限の旅を思い出したからだ。クリスティーヌも参加者のひとりだった。ノルウェーの最北端で白夜を体験するエルメスの「年間テーマ発表会」の旅で、ピエール=アレクシィ・デュマはこう言った。「エルメスの夢は、目を閉じて見る夢ではありません。目を開けて見る夢なのです」と。
 アフリカのお伽話に恋をして、やがて化学者になる少女の夢が、情熱と本質を抱きしめながらものづくりに邁進するメゾンに出合って本物になった。「バレニア」は、エルメス初のシプレは「目を開けて見る夢」、そのものなのだ。

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エディターIGARASHI

おしゃれスナップ、モデル連載コラム、美容専門誌などを経て現職。
趣味は相撲観戦、SPURおやつ部員。

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