アントワープ郊外の庭にドリス・ヴァン・ノッテンを訪ねて<後編>

ベルギー人デザイナー、ドリス・ヴァン・ノッテンの稀少なロング・インタビュー。知的で美しい独特の世界観に基づく服づくりと、着実なビジネス・スタイル――。その背景にある、彼の魂の系譜を読み解く

 情熱的というより冷静で、挑発的というより心の内側に光を与えるようなドリス・ヴァン・ノッテンの服。その研ぎ澄まされた色彩感覚はどこから来るのか。柄やモチーフはどのように紡がれ、独自の世界観へと昇華されるのか。ヴァン・ノッテンの服づくりが培われ育まれた源を探りに、作家ハニヤ・ヤナギハラがアントワープ郊外のヴァン・ノッテンの庭を訪れた。めったに自らを語ることのない彼の稀少なロング・インタビュー後編。



 広い視野を持ち、テキスタイルに精通し、偉大な世界文明が生んだ伝統芸術への造詣が深いヴァン・ノッテンは、そういう点がまさに自分のフラマン人らしいところかもしれないと言う。いったいどういう意味だろう。

いまの時代、生まれ故郷や大人になるまで育った土地で活動を続けるデザイナーはほとんどいない。モード界に身を置くことはつまり、本来の市民権を捨てて、業界の拠点であるミラノ、パリ、ロンドン、ニューヨーク、そしておそらく東京といった“パラレルワールド”に移住することを意味するからだ。だがヴァン・ノッテンは、ほかのデザイナーと同じくらい多くの旅をしながらも、彼が生まれ、育ち、学んだアントワープにとどまったまま創作活動を続けている(現在はアントワープの中心地から車でわずか30分の場所にある、リンゲンホフと呼ばれる邸宅に暮らしている。新古典主義の石造りのこの住居は、1840年代に地元のビール醸造者のために建てられた)。

彼の子ども時代、アントワープは静かなブルジョアの街だったが、ファッションという世界に彼は無縁ではなかった。もともと仕立て屋の家に生まれた彼の父親が、複数のブティックの経営者だったのだ。フェラガモの靴やシャルヴェのシャツなど、イタリアやフランスの上品で仕立てのよい製品を買いつけに、父親はミラノやパリをよく訪れていたという。ヴァン・ノッテン本人は10代になるとすでに子ども服のバイヤーの業務を任されていた。ブティックでは土曜午後にファッションショーを催すことがあり、シーズン最新の服をまとった地元のモデルたちが店内のスペースを闊歩していたらしい。

このように彼の家は、ベルギーという小国を囲む国や文化圏から届いた繊維製品、生地や物品の販売を生業としながら、数世紀にわたって繁栄した“低地地方(現在のベルギーとオランダ周辺)における商業の歴史”を受け継いでいた。舶来の絹や毛織物を一枚ずつ手で広げ、外国産の染料や染粉の重さを丁寧に量っていた人々の伝統を継承するかのように。もしも、私たちが13世紀のブルージュ(アントワープから約100キロの位置にある都市)の裕福な商人だったなら、世界中から届いた素材の柄や色を前に目を見開いては、まだ見ぬ国々に思いを馳せて一生を過ごしたことだろう。このように何世紀にもわたって育まれてきた好奇心という才能を、この土地の人々は生まれもっている。ヴァン・ノッテンが言う「フラマン人らしさ」とは、つまり外の世界へ、世界のもっと向こうへ目を向けることなのだ。

 1980年代初頭にアントワープ王立芸術アカデミーを卒業したヴァン・ノッテンは、アン・ドゥムルメステール、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンクらとタッグを組み、1986年にロンドンで、伝説に残るゲリラ的なショーを開いた。フラマン人の彼らにとって、ロンドンという海外での成功を目指したのはごく自然な展開だったのかもしれないが、このショーはモード界にセンセーションを巻き起こした。そしてこれをきっかけに、彼らは「アントワープの6人」と呼ばれ、世界にその名をとどろかせたのだった。(ちなみにこのショーには参加しなかったマルタン・マルジェラも、現在はこのメンバーのくくりに加えられている)。

ヴァン・ノッテンが大人になりつつあった1970年代といえば、ちょうど文化のグローバル化が始まった時代だ。思考から美意識、音楽やアートまでのあらゆることが、これほど速く、これほど遠くまで広がるようになったのは、人類史上初めてのことだった。こうして10代の若者たちはアントワープに住みながら、ロンドンや西ベルリンのパンクロックを聴けるようになった。そして彼らは突然発見した。この世には何かを創造する人々がいて、その人たちの世界に憧れたり、ムーブメントに加わったり、共感したりすることができるということを。テレビや雑誌で見かける自分と同年齢か、少し年の違う若者がしていることは、自分にもできるかもしれないということを。それは心を揺り動かすような、驚くほど斬新な発見だった。

ヴァン・ノッテンにとっての憧れの人はデヴィッド・ボウイだった。その後、長い年月を経て、彼はボウイへオマージュを捧げるようになった。刀のようにシャープな細身のスーツやボウイの物憂げで退廃的なムードを、ヴァン・ノッテンはもう何度もコレクションに取り入れている。これはファッションに限った話ではない。結局のところ、自由主義の国もそうでない国でも、当時の若者はみんな気づき始めていた。人々を結びつけるのは家族でもレガシーでも国でもなく、音楽やアート、演劇や映画だということに。こうして彼らはニューウェーブやアヴァンギャルドという新たなムーブメントを生み出したのだ。もっと強い絆を求めて、人々とのつながりを求めて。

 ロンドンでのショーのあと、ヴァン・ノッテンはベルギーに戻ってコレクションの販売を始めた。当時はメンズウェアしか手がけていなかったが、初めてのクライアントの一社であるバーニーズ・ニューヨーク(いまや最も長年の得意先のひとつである)はメンズの一番小さいサイズをオーダーし、レディスウェアとして販売したらしい。それから3年後の1989年、彼は小さなブティックを閉めて、寂(さび)れたエリア内にある元デパートだった5階建ての物件に移動した。こうしてヴァン・ノッテンはファッションデザイナーとして本格的にビジネスを始動したのだった。(その後のストーリーもチェック)

SOURCE:「Dries Van Noten」By T JAPAN New York Times Style Magazine  

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