現実を生きながら、夢を見る。"好きなもの"にときめく感情をエネルギーに、数々の名作を世に生み出した作家・森茉莉。彼女の代表作の一つ、『贅沢貧乏』で描かれるマインドから着想を得た装いとは? 新しい服からヴィンテージまで、愛するものへの分け隔てない視点で組み合わせた唯一無二のスタイルを提案する
山崎まどか 特別寄稿 『贅沢貧乏』の精神で装うこと
森茉莉は不思議な作家だった。父である文豪・森鷗外の愛情を甘い蜜のように吸って育ったお嬢さんで、19歳のときには夫の山田珠樹に同行して渡欧。フランスで自由な精神と美意識を培ったが、作家として注目されるようになった50代の頃は二度の離婚を経て、資産も失い、世田谷区代沢にある小さなアパートでつつましく……というか“贅沢貧乏”に暮らしていた。
いくつになっても夢を見ているのが好きで、生活能力がまるでない森茉莉のアパートの散らかりようは、生きている頃からすでに伝説になっている。でも、彼女のエッセイを読んでいると、まるでその汚いアパートがウフィッツィ美術館であるかのように思えてくる。豪奢な色のディテールと布地を透かした光の美しさの描写にうっとりとしていると、それが単にタオルと下着をベッドの背にかけて干している様子だとわかる。“茉莉フィルター”を通して見ると、世界の何もかもが豊かで華やかだった。
「だいたい贅沢というのは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていることである」(『贅沢貧乏』〈講談社文芸文庫〉・「ほんものの贅沢」より)と森茉莉は語る。その美学で、彼女は日常をファンタジーに変えた。美男子たちの恋の物語を書き、ユーモラスなエッセイを書いた。単なるバターやスープも、彼女の文章で「牛酪」「肉汁」と記されているのを見ると、まるで濃厚な味を舌の上に感じるようだ。洋服についての描写も同じだ。
「私は食いしん坊のせいか、スウェターの色なぞも、胡椒色、ココア色、丹波栗の色、フランボワアズのアイスクリーム色なぞが好きで、又似合うのである」
ただ、セーターが好きでも、虫食いやほころびができてしまうと、繕い物のできない茉莉は取り扱いに困ってこっそり川に捨ててしまうのだが……。
幼少期に鷗外にヨーロッパから取り寄せてもらった洋服や、着物、パリで買った手袋——。森茉莉が語るファッションの話はいつ読んでも楽しい。現実の写真を見るよりも、彼女の文章で読んだほうが何倍も素敵に感じる。装いの美しさは彼女の中で雲のようにふくれ上がり、シュールな夢を描きだす。
他人の着ているものにも敏感だった。幸田文の身につけていた着物の描写にはうなってしまう。妄想の中でお気に入りのスターや知り合いの作家に、自分好みのファッションを着せるのも好きだった。彼女は晩年、痛快なテレビ批評の「ドッキリチャンネル」で有名になるが、あんな調子で、今のファッションシーンやパリコレを茉莉がレポートしたら楽しかっただろうと思う。
自分が身につけるのでなくても、茉莉は豪華なもの、趣味がよく、色がきれいで、凝ったディテールがある服が好きだった。しかしブランド信仰はなく、流行や価格も気にしない。パリや浅草の自由な精神が好きな彼女は、粋でいなせで、ちょっと不良のにおいのするものに心惹かれた。ルールに縛られずに、ただひたすら楽しく、喜びを感じられるものこそが、彼女にとって大事なものだったのだ。
今、森茉莉の“贅沢貧乏”な精神に則ってファッションを楽しむならば、人目を気にせず、ちょっとドラマティックで、個性的なコーディネートを心がけてほしい。まるで茉莉が見たシュールな夢が実現したような。「私が着たいような服だ」と彼女が歓声を上げるような。夢を見ながら生きていくのにふさわしい服である。





