2020年の逝去からまもなく4年。夢を追い続け、モードの聖地パリでその才能を花開かせた髙田賢三の没後初の大規模な展覧会『髙田賢三 夢をかける』がこの夏開催される。彼が残したもの、そして自身のドラマティックな人生とは
TOPIC1 時代がひと巡りした今こそ 賢三の夢見る力が必要だ
アーカイブス作品、当時撮影されたビジュアルなどと併せタイムラインにそってその人物像にも迫る回顧展『夢をかける』。タイトルに込められた想いや展示の見どころについて、本展に携わった二人のキーパーソンに話を聞いた
「展示のために年譜を作っていたら、映画の原作になりそうなほどドラマティックで」と話すのは、展覧会のキュレーターである東京オペラシティ アートギャラリーの福島直さん。髙田賢三は1939年、兵庫県姫路市出身、男子の入学が認められて2期目の文化服装学院に1958年に入学する。コシノジュンコら後に「花の9期生」と呼ばれる才能たちと切磋琢磨し、若手デザイナーの登竜門である「装苑賞」を受賞。卒業後、東京オリンピックの年に船旅にてパリへ渡り、デザイン画を売ることで得た資金を元手に1970年、自らのブランドを立ち上げ、パリ2区のギャラリー・ヴィヴィエンヌにブティック「ジャングル・ジャップ」を開いた。
本展では主に、髙田の代表作が次々に生み出された1970〜80年代初頭のクリエーションに着目。日本の帯の生地を着物に使った初期の作品や西洋の伝統に対抗して日本の着物の形を取り入れた「アンチクチュール」、農民の服をイメージした「ペザントルック」、そして彼の代名詞ともいえる「フォークロア」をテーマにした作品などが展示される。何より話題となるに違いないのは、1982-’83 年秋冬コレクションで発表されたマリエ。自身が好きで買い集めていたリボンを縫い合わせて作った大作である。
「このドレスの制作記録を見て、ぜひ今回展示したいと思ったのですが、何しろ賢三さんは晩年にLVMHブランドから離れたので、どこにどの作品が保管されているか調査するのに時間がかかりましたが、が大切に保存しているとわかり、今回、修復してから出品されることになりました」と福島さんが話すように作品集めには苦労が伴ったが、結果、82体もの衣装を展示することに。その内の60数体は髙田の母校、文化学園のファッションリソースセンターが所蔵するものだ。同センターのセンター長、上田多美子さんによると「1993年に学院の創立70周年を記念して『KENZOの世界』という展示をした際、たくさんのピースを寄贈してもらったので、その中から当時のコーディネートのまま提供することができました。それと、1989年に有楽町での『LÍBERTÉ KENZO 髙田賢三展』のために四谷シモンさんがデザインした球体マネキンがうちに3体残っていて、それを使ったユニークな展示も見ていただけます」
日本人でありながら、いや、日本人であるからこそ持ち得た着眼点によって、パリモードの流れを大きく変えた髙田。顧客の体に合わせて服を作るオートクチュールに対抗するように発表した、直線裁ちによる「アンチクチュール」は、プレタポルテへと移行する新時代の到来を十分に予感させるものだった。また、ファッションショーにエンターテインメントの要素を取り入れたのも髙田の魅力のひとつである。それまでのショーといえば、専属モデルが一人ずつブティックの中を静かに歩くものだったが、彼のショーでは音楽が鳴り響き、モデルたちは躍動し、時に馬や象などの動物が登場する。福島さんによれば「生前の賢三さんをご存じの方に話を聞くと、彼のことを悪く言う人は一人もいなくて、本当に愛すべき人物だったようです」というから、常に人を楽しませたいと考えるその人柄が、ショーの演出にも表れていたのだろう。
「展覧会のタイトルには、賢三さんが人生で一番大切にしていた“夢”という言葉を使いたいと思いました。夢に“賭けて”パリへ渡り、“駆け”抜けた人生であるところから『夢をかける』としたんです」と福島さん。また、「今の私たちが忘れてしまった、型破りでがむしゃらな熱量によって、大きな夢を実現させた賢三さんの功績は、当時の日本人に計り知れない影響を与えたと思います」と上田さんは話す。偉大なるデザイナーの夢見る力は、時代を巡って、今また必要とされているのかもしれない。
髙田賢三は、日本人のファッションデザイナーとして初めてパリモード界に認められた存在と言っても過言ではない。常識を打ち破る、斬新なアイデアによって、革新をもたらした数々の偉業に迫る
厳かだったショーに音楽を。来場者も心躍る空間に
服そのものを見せることが目的だったそれまでとは一転、音楽や空間演出を取り入れ、コレクションの世界観を表現する要素をショーに加えて心躍るような空間を作り出した。快適で動きやすいシルエット、鮮やかな色彩、スタイリングによって完成する服は、ランウェイで躍動するモデルのアティチュードによってその魅力が最大限に引き出されたのだ。
「アンチクチュール」として着心地のよい服を提案
既存のルールから脱し、身体を衣服から解放したい。そんな思いから、日本の着物をはじめ、世界中の民族衣装に共通する、四角い布から作る直線裁ちのゆったりとした服を生み出す。伝統的なクチュールの手法に対抗する「アンチクチュール」と称した服は、プレタポルテが勢いを持ちつつあった時代の波にもフィットして、パリモード界に新たな旋風を吹かせた。
動物を初めてランウェイに登場させる
上の写真は1978-’79年秋冬、「ミリタリー・宮廷・僧侶」をテーマにしたショーのフィナーレで、ミリタリールックのマリエを纏ったモデルが白馬に乗って登場した際のもの。動物がランウェイを歩いたのは史上初のことであり、髙田のショーでもこれが初めてのことだった。以降、馬のみならず象も登場するなど、スペクタクルな演出のショーは彼の代名詞の一つとなった。
80年代初頭に起きた「黒の衝撃」にも惑うことなく、カラフルなクリエーションを貫いた「色彩の魔術師」。その呼び名のゆえんである、3つのキーワードにフォーカス
髙田がこよなく愛した花柄。シーズンテーマによって採用される花の種類や配色は変わり、またコレクションのムードを決定づける役割も果たした
1 1986年春夏のランウェイを歩く「東洋の神秘」山口小夜子。格子柄のレギンスにもヘッドピースにも花がいっぱい!
2 芍薬、バラ、ひなげし——。プリント柄を専門に手がけるデザイナーを抱え花柄は"KENZOらしさ"を表現するために欠かせない要素となった
3 2004年に開催されたアテネオリンピックの日本選手団の公式服装には芍薬をチョイス。「多様な色、柄、素材の中から選手が好きな組み合わせを選ぶ」という斬新なコンセプトも話題に
「原色どうしの配色は僕のモードのポイント」と生前髙田は語っている。色や柄を縦横無尽に組み合わせレイヤードをきかせたコーディネートによって完成するのが「KENZO」スタイル
4 「ニューカラー」と銘打った1975-’76年秋冬コレクションでは、タータンチェックに花、ジャカードなど、柄と色が生き生きとあふれ返り、コーディネートが持つパワーを示した。一つのルックの中に3つの柄を用いるなど柄と柄の組み合わせは髙田の得意とする手法だ
5 1981-’82年秋冬では、ペチコートやタイツなどで赤をきかせるスタイルも多用された
6 花柄のニットにタペストリー柄のポンチョやマフラーなど、いくつもの層が重なり合いながらもまとまりのあるレイヤリングの光る1984-’85年秋冬コレクション
パリへ渡る船旅で寄港した街で目にしたものは、若き日の髙田に多くのインスピレーションを与えた。やがて代名詞となる「フォークロア」として花開く
7・8 デビューした1970年頃はヒッピームーブメント全盛期。友人から贈られたルーマニアの農民を捉えた写真集を機に、フォークロアを本格的に追求する。1975-’76年秋冬に発表された中国をテーマにしたルックでは肩にかけたプチ・サック(ポシェット)が大流行した。民族衣装の多くは平面裁断であり、色のミックスやパッチワークなど、髙田が好んだ要素が多く用いられていることもあって、アフリカ、中南米、ロシア、そして日本など世界中の民族衣装がクリエーションソースとなった
9 1982-’83年秋冬では東欧からインスパイアを受け、たっぷりしたギャザーやスモックを取り入れ、アクセントにテープを使用した
10 1981-’82年秋冬のロシア・ルックの際は鮮やかなバラのプリントが目を引いた
さまざまな立場で髙田賢三の業績を見てきた人物から、そのクリエーションと人柄の魅力を聞いた
髙田賢三のアシスタントとして、約10年「KENZO」で働いたのち、パリにて独立。昨年フランスの芸術文化勲章を受章。
記憶の中の彼の一番の印象は「いつもスマイル」。少しシャイでどんなときもほほえんでいる人。その一方で、今は普通になっていることを、当時世界に先駆けて着手したチャレンジャーでもありました。難しいアイデアソースをデイリーウェアに昇華させたり、ランウェイを有名人が歩いたり、アトリエやテントでなくカフェや証券取引所でショーを行うというような取り組みは、それまでにはなかったことだと思います。クリエイターはみんなそうだと思いますが、ショーの2日前にアイデアが降ってきて急にルックが増えることになるなどワイルドなところがあり、周りはハラハラさせられたものです(笑)。ですが、当の本人は楽しんでいて大体がうまくいくんですよね。日々波瀾万丈なのに、全然そうは見えない。いつも恋をしていて、エネルギーにあふれていた人でした。彼自身は夢という言葉を大事にしていると言っていたけれど、僕は彼こそが夢を現実化した魔法使いだと思います。
日本とフランスのよいところを組み合わせ世界を魅了した
京都服飾文化研究財団理事、チーフキュレーターとして数多くの研究、展覧会企画を手がける。ファッションにおけるジャポニスム研究の第一人者。
1971年春、偶然KENZOのショーを見ました。初めて私がパリに行ったときのことです。シャンゼリゼ通りのドラッグストアが会場。中央のエスカレーターで、モデルが2階から降りてきました。そして、上りエスカレーターで消えていきます。ゆるーい、自由に服を重ねる自然体の着こなし方が、めちゃくちゃ新鮮でした。大きな衝撃を受けました。今、世界中の人が、みんなそのように服を着ています。 生まれた国・日本の伝統とパリのエスプリを巧みに交ぜ合わせた色と柄の使い方で、誰をも魅了。"ケンゾー"という日本人デザイナーは、70年代に世界で最もコピーされるスター・デザイナーでした。
反骨精神ではなくハッピーの力で革命を起こしたチャーミングな人
KEITA MARUYAMA デザイナー丸山敬太さん
文化服装学院卒業後、フリーのデザイナーを経て「KEITA MARUYAMA」をスタート。ブランドは今年30周年を迎える。
僕が初めてKENZOを認識したのは、当時テレビのワイドショーで放映されていたお城でのファッションショー。お祭りみたいに踊りながらモデルが登場する楽しげな世界観に夢中になり、賢三さんに憧れてファッションデザイナーを目指しました。パリのKENZOに分厚いポートフォリオを持っていったこともあるほど、賢三さんからたくさんの影響を受けました。
ご本人はとても「今っぽい」人。多様性が叫ばれるずっと前から、ボーダーレスな感覚を持っていました。当時のファッション界はまだまだブルジョア主義。でも、モードでありながらもカジュアルで一般の人に着やすい、開かれた服を数多く作りました。服の構造もすごく特別。シンプルなパターンに見えて、誰もが似合うようにデザインされています。当時からフラットな視点を持っていて、それをラブリーに世界へ広めていった人だと思っています。